旅のガイドというより、記憶の地図みたいなものです。
画面に映る風景を辿りながら、あの沈黙がどこから来たのかを、そっと確かめていきます。
この記事は、映画『ドライブ・マイ・カー』のロケ地を
撮影場所としての事実と、感情表現としての意味の両面から整理したガイドです。
「どこで撮られたか」だけで終わらせず、「なぜ、ここでなければならなかったのか」に焦点を当てています。
ロケ地の記事は、つい“観光情報”になりやすいけれど、私はいつも少しだけ違うところで立ち止まってしまう。
たとえば、同じ会話でも、場所が変わるだけで温度が変わることがある。声の大きさより先に、空気の硬さが伝わってくる瞬間がある。
映画の風景は背景じゃなくて、感情の受け皿で、ときに感情そのものになってしまう。
『ドライブ・マイ・カー』のロケーションは、まさにその設計が精密で、
“言葉にならないもの”が置かれる場所として選ばれているように感じます。
車内の密室性、稽古場の乾いた時間、広島の街の距離感。
それぞれが、登場人物の心の動きと、こちらの呼吸まで調整してくる。
このページでは、ロケ地を「行ける場所」としてだけでなく、
「感情が生まれた場所」として並べていきます。
もし今のあなたが、観光の予定じゃなくても大丈夫。
画面の中の風景を辿るだけで、心のどこかが少し整う日もあるから。
※ロケ地の「事実」はできるだけ丁寧に、感情の読み取りは押しつけない温度で。
迷ったら、あなたの記憶が反応した場所から読んでください。
映画は終わっても、場所は残っている

映画を観終えたあと、
ふと浮かんでくるのは、
印象的な台詞でも、劇的な場面でもなく、
ただ、静かに佇んでいた風景だったりする。
どんな色の空だったか。
車窓から流れていった街並み。
稽古場の、少し乾いた空気。
『ドライブ・マイ・カー』を思い返すとき、
私の中でも、感情より先に場所の輪郭が立ち上がってくる。
この映画は、感情を説明しない。
登場人物の心を、言葉で整理してくれない。
だからこそ、その行き場を引き受けるものとして、
場所の存在が、とても大きな役割を担っているように感じる。
言葉にならなかった感情。
その場では置き去りにするしかなかった思い。
それらが、風景の中にそっと沈み込んでいく。
私自身、
旅先や、何気ない帰り道で、
以前の感情が急に蘇る経験が何度もある。
もう言葉にはできないはずの出来事が、
その場所に立った瞬間、
不意に胸の奥で息をし始める。
記憶は、
時間よりも、
場所に結びついて残ることがある。
映画は終わる。
物語も、上映時間とともに閉じていく。
でも、場所だけは、
そのあとも静かに残り続ける。
だからこのロケ地を辿る時間は、
作品を「振り返る」ためだけのものではない。
映画の中で行き場を失った感情が、
どこに置かれていたのかを、
そっと確かめるための時間でもある。
ここでは、ロケ地を
単なる撮影スポットとしてではなく、
感情を語り続けている風景
として、辿っていきたい。
映画が終わっても、
感情はすぐには終わらない。
そして、その感情は、
いまもどこかの場所に、静かに置かれている。
『ドライブ・マイ・カー』ロケ地一覧(全体像)
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映画『ドライブ・マイ・カー』
この映画のロケ地を振り返ると、
まず気づくのは、特別な場所がほとんど登場しないということだ。
物語の中心となっているのは、
広島市内の、ごくありふれた街並みや道路。
観光ガイドに載るような名所ではなく、
誰かの生活が、今日も続いていそうな場所ばかりが映し出される。
- 広島市内の街並み・住宅地・交差点
- 公道を実際に走行する車内シーン
- 劇場や稽古場として使われた施設
こうして並べてみると、
どれも「物語のための舞台装置」というより、
現実の延長線上にある空間だということが分かる。
私自身、初めてこの作品を観たとき、
ロケ地を意識していたわけではなかった。
けれど、観終わったあとに残ったのは、
どこか見覚えのあるような街の気配だった。
心理学の視点でも、
人は「非日常的な風景」よりも、
自分の生活と地続きの場所のほうが、
感情を投影しやすいと言われている。
見慣れたようで、完全には自分のものではない場所。
だからこそ、
登場人物の感情が、
すっと入り込んでくる。
観光地を巡る映画ではない。
けれど、
誰かの生活を、静かに横切っていくようなロケ地構成が、
この作品の感情の質を決定づけている。
ここから先では、
それぞれのロケ地を、
「どこで撮られたか」だけでなく、
なぜ、そこだったのかという視点で見ていく。
場所は、背景ではなく、
感情を受け止める器として、
この映画の中に確かに存在している。
なぜ舞台は「広島」でなければならなかったのか

映画『ドライブ・マイ・カー』
広島という街の名前を聞くと、
私たちはどうしても、
ひとつの大きな歴史や意味を思い浮かべてしまう。
日本映画の中でも、広島はたびたび、
語られる場所として描かれてきた。
記憶、象徴、祈り、そして「忘れてはいけないもの」。
けれど『ドライブ・マイ・カー』は、
その重さを、ほとんど正面から扱わない。
原爆ドームが強調されることもなければ、
歴史を説明する台詞が挿し込まれることもない。
画面に映るのは、
ただ今日も生活が続いている街としての広島だ。
私はこの距離感に、
とても誠実な選択を感じた。
何か大きな喪失を背負った場所だからこそ、
それを簡単に「物語の意味」として消費しない。
語らないことで、
むしろそこに在り続けている時間を尊重しているように見えた。
大きな喪失を、声高に語らない街。
それでも、日常をやめなかった場所。
それは、この映画が選んだ感情の態度と、
どこか重なっている。
悲しみを説明しない。
乗り越えたことにも、しない。
ただ、抱えたまま生きている。
心理学の領域でも、
トラウマや深い喪失は、
「語ることで解消されるもの」ではないとされている。
むしろ、多くの場合、
それは日常の中に溶け込み、
語られない形で存在し続ける。
広島という街は、
その在り方自体が、
「語らない喪失」を引き受けてきた場所だ。
だからこそ、
この映画の静かな感情が、
無理なくそこに置かれる。
広島でなければならなかった理由は、
何かを象徴させるためではない。
語られないものを、
語らないまま置いておける場所
その静けさが、
この物語には必要だったのだと思う。
車内シーンの撮影場所と心理的意味

映画『ドライブ・マイ・カー』
『ドライブ・マイ・カー』の車内シーンは、
スタジオではなく、
実際の公道で撮影されている。
カメラはほとんど動かず、
編集も控えめ。
感情を盛り上げるためのカット割りや、
観る側を導くような演出は、意図的に削ぎ落とされている。
その結果、私たちは、
ただ車に「同乗している」ような感覚になる。
窓の外を流れていく景色。
一定の速度。
途切れ途切れの会話と、長い沈黙。
そこには、演出された感情ではなく、
その場で共有されている時間だけが、確かに存在している。
- 簡単には抜け出せない、物理的な密室
- 正面を向いたまま話せる、視線を合わせなくていい距離
- 降りるまで、同じ時間を共有し続けるしかない強制性
車内という空間は、
不思議なほど、人の感情を無防備にする。
目を合わせないことで、
逆に言葉が零れやすくなったり、
何も言えない沈黙が、重たくなったりする。
私自身も、車での移動中に、
普段なら飲み込んでしまう気持ちを、
ふいに口にしてしまった経験が何度もある。
目的地が決まっていて、
すぐに終わると分かっている時間だからこそ、
心が一時的に、警戒を解いてしまうのかもしれない。
車内は、移動のための場所であると同時に、
感情が一時的に預けられてしまう空間でもある。
『ドライブ・マイ・カー』は、
この心理的特性を、過剰に強調することなく、
ただそのまま差し出している。
だからこそ、車内で交わされる言葉や沈黙は、
ドラマとして演じられているというより、
避けられなかった感情の残り香のように、胸に残る。
車内は、どこかへ向かうための場所だ。
けれど同時に、
心がいちばん動いてしまうのは、
その「途中」なのだと、この映画は教えてくれる。
劇場・稽古場ロケ地が象徴する「言葉の限界」

映画『ドライブ・マイ・カー』
『ドライブ・マイ・カー』の演劇シーンは、
広島市内の劇場や稽古場を舞台に描かれている。
客席の静けさ。
舞台の上に置かれた最小限の装置。
そして、まだ誰にも届いていない言葉たち。
この場所に立った瞬間から、
映画はすでに、
「言葉が万能ではない世界」へと、私たちを連れていく。
作中で上演されるのは、
多言語による演劇だ。
日本語、韓国語、手話、英語。
舞台の上には、確かにたくさんの言葉が存在している。
けれど、その意味は、
必ずしも全員に共有されていない。
ここで描かれているのは、
「言葉が足りない」状況ではない。
むしろ、言葉は十分にある。
それでも、
感情には届かないという現実だ。
稽古では、台詞が何度も繰り返される。
感情を込めることは、むしろ制限される。
正確に発音すること。
間を守ること。
音として、身体に通すこと。
その過程で、台詞は意味を語るものではなく、
感情を預けるための器へと変わっていく。
私自身、言葉にしようとすればするほど、
大事な気持ちが、かえって遠ざかってしまった経験がある。
うまく説明できたはずなのに、
どこか嘘のように感じてしまう瞬間。
この映画で、
台詞は感情を「伝える」ためのものではない。
感情の代わりに、そこに置かれるものとして扱われている。
劇場や稽古場という場所は、
本来、言葉を磨き、届けるための空間だ。
だからこそ、
そこであえて浮かび上がる「言葉の限界」は、
とても静かで、残酷で、誠実でもある。
感情は、いつも言葉より先にある。
劇場という場所は、
その事実を、声高に主張するのではなく、
ただ舞台の上に、そっと置いてみせている。
この場所が選ばれた理由|ロケ地は感情装置である

映画『ドライブ・マイ・カー』
『ドライブ・マイ・カー』のロケ地を振り返ってみると、
まず気づくのは、
いわゆる「分かりやすい名所」が、ほとんど登場しないことだ。
観光パンフレットに載るような場所でもなければ、
画面を一瞬で支配するような景観でもない。
それでも、あの風景は強く記憶に残る。
なぜなら選ばれているのは、
感情がとどまることを許してしまう場所だからだ。
人が足早に通り過ぎるだけの場所ではない。
かといって、特別な意味を主張してくるわけでもない。
ただ、そこに立つと、
少しだけ歩く速度が落ちてしまう。
何も起きていないはずなのに、
なぜか時間の存在を意識してしまう。
そうした場所こそが、
この映画では選ばれている。
私自身、何も考えずに立ち寄った街角で、
ふと昔の記憶が浮かび上がってきたり、
理由もなく足を止めてしまった経験がある。
景色が語りかけてきたわけではない。
ただ、その場所が、
心の中に溜まっていたものを、
受け止めてしまっただけだ。
この映画において、
ロケ地は「雰囲気づくり」ではない。
感情を置いておくための装置として、
ひとつひとつ選ばれている。
キャラクターが何も語らないとき。
感情が宙に浮いたままのとき。
その沈黙や重さを、
背景としてではなく、
代わりに引き受けているのが、場所なのだと思う。
派手さはない。
物語を説明する力もない。
それでも、その風景がなければ、
あの沈黙は、
あの感情は、
きっと成立しなかった。
ロケ地の現在・行き方・聖地巡礼の注意点

映画『ドライブ・マイ・カー』
本作のロケ地の多くは、
今も広島市内の日常の風景として、静かに存在している。
特別に整備された「観光用スポット」というより、
人の生活がそのまま続いている場所がほとんどだ。
- 広島駅を起点に、路面電車やバスで無理なくアクセスできる
- 撮影場所の多くは、公道や公共施設の周辺
- 建物内部や私有地は、現在立ち入りできない場合もある
私自身、ロケ地を訪れたとき、
「ここだ」と強く主張してくる場所が少ないことに、
逆にこの映画らしさを感じた。
看板も説明板もない。
ただ、車が通り、人が歩き、
いつもの一日が続いている。
だからこそ、
この作品の聖地巡礼は、
写真を撮り歩く旅というより、
静かに歩いて、立ち止まって、
その場の時間を感じるための巡礼
が、よく似合う。
あの映画がそうであったように、
ここでは「何かをする」より、
何も起こらない時間に身を置くことのほうが大切かもしれない。
なお、ロケ地の多くは今も生活の場だ。
大きな声を出したり、長時間立ち止まったりすると、
どうしても周囲の迷惑になってしまう。
写真を撮るよりも、
深呼吸をひとつして、
その場所に流れている空気を受け取る。
きっとそれだけで、
スクリーンの中にあった沈黙が、
少しだけ現実の感触を持って、
心に戻ってくるはずだ。
写真に写らないものを、どう受け取るか

ロケ地は、必ずしも「映える」場所ではない。
角度を探しても、特別な構図が見つかるわけでもない。
それなのに、
なぜか足が止まってしまう場所がある。
私自身、カメラを構えたまま、
何も撮らずに立ち尽くしてしまったことが何度かあった。
写真に残せる情報は、
光や形や色だけだ。
でも、その場所に漂っているものは、
どうしてもフレームに収まらない。
たぶん、
そこに残っているのは、
誰かの感情が、通り過ぎていった気配
なのだと思う。
言葉にされなかった気持ち。
車内に置き去りにされた沈黙。
何も起きなかった時間。
それらは、写真としては残らない。
けれど、確かにその場所を通過している。
感情は、
目に見える形で残らなくても、
場所の記憶として、静かに滞留する。
聖地巡礼という言葉を聞くと、
どうしても「再現」や「確認」のイメージが先に立つ。
でもこの映画に関しては、
同じ構図を探すことより、
同じ感覚に触れることのほうが、ずっと近い気がする。
何も起きない時間を、
そのまま受け取れるかどうか。
立ち止まって、
風の音や、遠くの車の気配に耳を澄ませる。
そうしているうちに、
自分の中の感情が、ふと動き出すことがある。
聖地巡礼とは、
シーンを再現する旅ではなく、
感情をもう一度、身体に通してみる行為なのかもしれない。
写真に写らないものを、
それでも確かに受け取ってしまう。
その体験こそが、この映画らしい巡礼のかたちだと思う。
場所は、感情を記憶している

『ドライブ・マイ・カー』のロケ地は、
こちらに向かって何かを語りかけてくるわけではない。
名所のように説明板があるわけでもなく、
ここで「何かが起きた」と主張する気配もない。
ただ、
感情がそこに置かれていたことだけを、
ひどく静かな仕方で覚えている。
誰かが言葉を飲み込んだこと。
何も言わないまま、同じ景色を見続けた時間。
その痕跡が、消えずに残っている。
私自身、
映画を観たあとで同じ場所を歩いたとき、
不思議と「初めて来た」という感覚にはならなかった。
見覚えがあるわけではない。
でも、心のどこかが、
すでにその沈黙を知っているような感覚だった。
場所は、出来事を記憶するのではなく、
感情の温度を、そっと抱え続けている。
映画をもう一度観るように、
その場所を、ゆっくり歩いてみる。
すると、
スクリーンでは気づかなかった沈黙の意味が、
少しだけ形を変えて、こちらに戻ってくる。
何も語られなかった時間が、
なぜあんなにも重かったのか。
なぜ、あの距離が必要だったのか。
その答えは、
映画の中ではなく、
自分の感情の側から、ゆっくり立ち上がってくる。
場所は、何も教えてくれない。
でも、否定もしない。
感じたままの沈黙を、
そのまま預けていい場所として、
ただ、そこに在り続けている。
FAQ

Q. ロケ地は実際に行けますか?
A. はい、多くの場所は現在も広島市内で訪れることができます。
公道や公共施設が中心なので、特別な許可が必要ない場所も多いです。
ただし、劇場や施設の内部は公開状況が変わることもあります。
映画の記憶を辿る前に、その場所が「今、使われている日常の場」であることを、少しだけ意識しておくと安心です。
Q. 聖地巡礼としておすすめの回り方は?
A. 写真を撮るための「スポット巡り」よりも、
街を歩き、移動し、立ち止まる時間を大切にする回り方が合っています。
劇的な場所を探すより、
何も起きていない時間をどう過ごすかを意識すると、
映画の空気に近づける気がします。
Q. 映画を観てから行くのと、行ってから観るのはどちらがおすすめですか?
A. 個人的には、観てから行くほうが、沈黙の意味を受け取りやすいと感じます。
ただ、先に場所を歩いてから映画を観ると、
スクリーンの中の風景が、現実と重なってくる瞬間があります。
どちらが正解というより、
感情の入口が変わるだけなのかもしれません。
Q. 写真は撮ってもいいのでしょうか?
A. 公道であれば問題ない場所がほとんどですが、
この作品のロケ地は、写真に残すよりも、
体感として残るものが多い場所です。
無理にカメラを構えなくても、
その場の空気や沈黙を覚えておくだけで、
映画を思い出すには十分だと思います。
Q. 一人で巡るのと、誰かと一緒に巡るのはどちらが向いていますか?
A. どちらも違った良さがありますが、
静かに受け取りたい場合は、一人の時間が向いているかもしれません。
誰かと一緒なら、
言葉にしなくても共有できる沈黙が生まれることもあります。
映画と同じように、
そのときの距離感を大切にできる相手と歩くのが、一番自然です。
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『ドライブ・マイ・カー』という作品は、
ひとつの角度から眺めただけでは、なかなか語り終わらない映画だと思います。
心理、喪失、構造。
どこに焦点を当てるかで、
同じ沈黙や同じ場面が、まったく違う表情を見せてくる。
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