観終わったあと、
私はすぐに席を立つことができなかった。
画面は確かに美しかった。
色彩も、衣装も、身体の動きも、どこか夢の中のようで。
同時に、強烈な違和感も残っていた。
「理解できたか?」と自分に問いかけると、
正直に言えば、首を縦には振れなかった。
でも、それは失敗作を観たあとの戸惑いとは、少し違う。
むしろ、考えることを途中で放り出されたような感覚に近かった。
『哀れなるものたち』は、
観客に「正解」を手渡してくれる映画ではない。
物語を噛み砕いて説明することも、
感情をひとつの方向へ誘導することも、
意図的に避けているように見える。
その代わりに、この映画は、
こちらをじっと見返してくる。
「あなたは、どう感じた?」
「それを、どう扱う?」
この問いは、とてもやさしい顔をしているけれど、
実はかなり厄介だ。
なぜなら私たちは、
映画を観るとき、無意識のうちに
「わかりやすさ」や「納得」を求めてしまうから。
共感できる人物。
筋の通った成長。
善悪の整理された結末。
そうした“安心できる構造”を、
『哀れなるものたち』は、
あえて差し出してこない。
だからこそ、
「意味がわからない」
「不快だった」
「正直、ついていけなかった」
そんな感想が、自然と生まれてくる。
でも私は、
その違和感こそが、
この映画のいちばん誠実な入口だと思っている。
この記事では、
「なぜ意味がわからなく感じるのか」
「なぜ賛否がここまで割れるのか」
その理由を、
心理の揺れと
脚本構造の特徴という視点から、
できるだけ丁寧に紐解いていきたい。
これは、作品を「理解する」ための記事というより、
観終わったあとに残ったモヤモヤを、
自分の中にきちんと置き直すための文章だ。
もしあなたが、
「よくわからなかったのに、なぜか忘れられない」
そんな感覚を抱いているなら──
その感覚は、きっと間違っていない。
『哀れなるものたち』はなぜ「意味がわからない」と感じられるのか

この映画を観た人の感想を辿っていくと、
不思議と、同じ言葉に行き着くことが多い。
「意味がわからない」
一見すると、それは否定の言葉に聞こえる。
でも私は、この反応を、
映画に対する拒絶ではなく、とても誠実な戸惑いだと感じている。
なぜなら『哀れなるものたち』は、
観客に対して、かなり突き放した立ち方をする映画だからだ。
物語の途中で、
「ここが大事ですよ」と教えてくれることはない。
感情の整理を代わりにしてくれる場面も、ほとんど用意されていない。
観ている側が戸惑っても、
映画は立ち止まらない。
こちらを待たずに、淡々と次の瞬間へ進んでいく。
一般的な映画は、とても親切だ。
音楽で感情を導き、
編集で視線を誘導し、
「いま、こう感じてほしい」という道筋を、そっと敷いてくれる。
それは決して悪いことではなく、
多くの観客が物語に入り込むための、
大切な装置でもある。
けれど本作は、その装置を、ほとんど使わない。
喜ぶべき場面なのか。
笑っていいのか。
不快に感じる自分が正しいのか。
そうした判断材料を、
映画はあまり与えてくれない。
その代わりに差し出されるのは、
「あなたは、いま何を感じている?」
という、静かで重たい問いだ。
私自身、観ている途中で、
何度も自分の感情に迷子になった。
面白いのか、居心地が悪いのか。
解放的なのか、搾取的なのか。
どちらとも言い切れない瞬間が、何度も訪れる。
そして、その迷いを整理しようとした瞬間、
映画は、すっと先へ進んでしまう。
だから私たちは、
「理解しよう」とした途端に、置いていかれたような感覚になる。
この置き去り感こそが、
「意味がわからない」という言葉の、正体なのだと思う。
それは、物語が破綻しているからではない。
情報が足りないからでもない。
感情の“正解”を、最初から用意していない
その構造自体が、
私たちを不安にさせるのだ。
でも、だからこそ。
この映画は、観終わったあとも、心に残る。
「わかった」で終わらせず、
「どう感じたのか」を、
自分自身に問い返させる。
「意味がわからなかった」という感想は、
実はこの映画と、
いちばん正面から向き合った証なのかもしれない。
賛否両論が生まれた最大の理由は「不快さ」にある

映像は美しい。
世界観も、細部までよく考えられている。
それなのに、なぜか心が落ち着かない。
観ているあいだ、
ずっと小さな違和感が、胸の奥に居座る。
この映画が生む「不快さ」は、
暴力的な描写や、露悪的な表現のせいではない。
それは──
倫理観と感情のあいだに生じるズレから生まれている。
私たちは普段、
映画の登場人物に対して、無意識の期待を向けている。
「この場面では、こう感じるはず」
「ここでは、そう振る舞うべき」
そんな“暗黙の了解”を、自然と前提にしている。
けれどベラの行動は、
その前提を、いとも簡単に踏み越えてくる。
正しいか、間違っているか、ではなく、
「そう感じるはず」という期待そのものを、
静かに裏切っていく。
だからこそ、
観る側の心は揺れる。
解放的だと感じる人もいれば、
無神経だと感じる人もいる。
称賛と嫌悪が、
同時に立ち上がるのは、そのためだ。
賛否両論とは、
作品の完成度が低い証拠ではない。
観る側の価値観が、はっきりと浮かび上がってしまった結果
なのだと思う。
ベラは「共感されるため」に描かれていない

ヒロイン・ベラに対して、
「どうしても共感できなかった」
そう感じた人は、きっと少なくない。
でもそれは、
観る側の感受性が鈍いからでも、
理解力が足りないからでもない。
そもそも彼女は、
共感される主人公として設計されていない。
この映画が描いているのは、
いわゆる「成長物語」ではない。
失敗して、学んで、反省して、
少しずつ立派になっていく──
そうした道筋とは、明らかに違う。
描かれているのは、成長ではなく、変化だ。
善悪の感覚。
羞恥心。
社会的な振る舞い。
私たちが「最初から備わっているもの」と思い込んでいるそれらを、
ベラは、あとから一つずつ身につけていく。
その過程は、
ときに無遠慮で、
ときに残酷に映る。
観る側の感情を、
きれいに撫でてはくれない。
けれどそれは、
彼女が「欠けている存在」だからではない。
むしろ、
私たちの側が、完成された人間像に慣れすぎている。
最初から常識を理解し、
空気を読み、
適切に感情を表現する主人公。
そうした人物像を当然だと思ってきた目には、
ベラの存在は、あまりにも生々しく、居心地が悪い。
共感できない、という感覚は、
実はこの映画の核心に、とても近い。
ベラは、
「好きになってほしい」存在ではなく、
私たちの価値観を映し返す鏡として、そこに立っている。
だからこそ、
彼女をどう感じたかは、
そのまま、観た私たち自身の輪郭を浮かび上がらせる。
脚本構造で見る「わからなさ」の正体──感情の梯子が外されている

「意味がわからない」と感じたとき、
その原因はストーリーの難しさというより、
感情を置くための足場が、ふいに消えてしまったことにある 気がする。
映画って、意外と“親切な設計”でできている。
たとえば──何を望んでいるのか(目的)が見えて、邪魔が現れて(障害)、心が迷って(葛藤)、それ でも選び(選択)、何かを失う(代償)。
こうして小さな段差を順番に上がっていくと、観客は「理解する」というより、
自然に“ついていける”状態になる。
私も脚本の構造を学んだとき、いちばん腑に落ちたのがここだった。
面白い物語って、センスだけじゃなく、
ちゃんと心が動く順序を守ってくれている。
だから観客は安心して、迷いながらも前に進める。
でも『哀れなるものたち』は、その“順序”を、わざと崩してくる。
目的が見える前に行動が起きたり、
心の逡巡より先に快楽が差し出されたり、
「普通ならここで立ち止まって反省するよね」という地点を、
さらりと通過してしまう。
そのとき観客の心に起こるのは、理解の遅れというより、
感情の遅れだと思う。
体感としては「追いつけない」。
もっと言うなら、「追いつく前に次の部屋へ連れていかれる」感じ。
だから、頭は映像を追えているのに、
心だけが少し遅れて、置いていかれたような気持ちになる。
そのズレが、あの独特の「意味がわからない」に変換されるのだと思う。
感情の梯子が外れると起きること(小さな整理)
・「なるほど」と腑に落ちる前に、次の場面へ運ばれる
・共感の準備ができないまま、判断(好き・嫌い)だけを迫られる
・笑っていいのか、嫌悪していいのか、心の立ち位置が揺れる
ここで大事なのは、
その揺れが偶然ではなく、
「揺らがせる」こと自体が設計になっているらしい、という点。
観客って、安心して理解できた瞬間に、少し眠くなる。
物語の安全な手すりを握って、「ああ、わかった」と呼吸が整うから。
でもこの映画は、その手すりを長く握らせない。
わからないまま、整わないまま、それでも次へ連れていく。
その手荒さは、たしかに好き嫌いが分かれる。
けれど私は、あれを「不親切」と言い切るのも、少し違うと思っている。
なぜなら、梯子を外されたことで初めて、私たちは
自分がどんな順序で“理解したがっているか”に気づいてしまうから。
つまり『哀れなるものたち』のわからなさは、
作品の難解さというより、
観客の心のクセを露出させる仕掛けなのかもしれない。
その露出が気持ちいい人は「自由だ」と感じるし、
つらい人は「置いていかれた」と感じる。
賛否が割れるのは、たぶんここだ。
ベラの「学習」はなぜ不気味に映るのか──発達ではなく、模倣と適応の物語

ベラが社会的な振る舞いを身につけていく過程には、
いわゆる“成長物語”の気持ちよさとは少し違う、ざらりとした手触りがある。
それは、内面が成熟していくというより、
外側のルールを学習していく──もっと言えば、
その場で生き延びるための「型」を覚えていく動きに近いからだと思う。
たとえば、「こう言えば受け入れられる」「ここで黙れば波風が立たない」。
私たちが日常で無意識にやっている、あの“適応”の技術。
でもベラはそれを、照れも罪悪感もほとんど持たずに、
透明な目で、まっすぐ試してしまう。
その素直さが、どこか怖い。
「わかっていて演じている」よりも、
「わからないまま、うまくなる」ほうが、人は不安になるから。
私自身、初めて知らない場所に飛び込んだとき、
「正しい振る舞い」を必死で覚えた時期がある。
その場の言葉のトーン、笑うタイミング、視線の合わせ方、失礼にならない距離。
うまくできた日はほっとするのに、帰り道で、なぜか少し虚しくなる。
あの虚しさはたぶん、
“自分らしさ”が増えたのではなく、
生き延びるための皮膚が厚くなっただけだったから。
ベラの学習がときどき不気味に見えるのは、
その「皮膚ができていく瞬間」を、観客が安全な距離で眺められないからだと思う。
まるで私たち自身の適応の記憶まで、引っぱり出されてしまうようで。
「発達」ではなく「適応」に見える瞬間
・納得や反省より先に、“使える振る舞い”が身についていく
・感情が整う前に、社会の型(言葉・作法・距離)だけが先に入る
・「わかる」より「通る」を優先した結果、心の居場所が薄くなる
そしてもうひとつ、学習という言葉には、つい希望を重ねてしまうけれど、
その内部にはいつも、小さな取引が混じっている。
受け入れられる代わりに、何かを飲み込む。
嫌われない代わりに、本音を丸める。
自由でいる代わりに、孤独を引き受ける。
私たちはそれを「大人になること」と呼んだり、「社会性」と名づけたりして、
なるべく美談の形に整えてしまう。
でもベラの変化を見つめていると、
その整え方が追いつかない。
取引の生々しさが、むき出しのまま残る。
だから落ち着かない。だから私たちは、判断の置き場を失う。
そしてその置き場のなさが、
「意味がわからない」という感想に、静かに繋がっていくのだと思う。
物語が難解なのではなく、
私たちが普段“見ないふりをしている適応の現実”を、きれいに包んでくれないから。
「視線」の映画でもある──見る者の倫理が、静かに揺さぶられる

この作品について考えるとき、
物語やテーマと同じくらい、
いつも頭に浮かぶのが「視線」のことだ。
だれが見るのか。
だれが見られるのか。
そして、その視線は本当に善意なのか。
映画を観るという行為そのものが、
実はとても曖昧な倫理の上に成り立っている。
私たちは暗闇の中から、
他人の人生や身体、選択を、安全な距離で見つめている。
でも『哀れなるものたち』は、
その「安全な距離」を、あまり長く許してくれない。
観ているはずなのに、
いつの間にか見られている側に引き寄せられるような感覚が生まれる。
ベラは、常に誰かの視線の中にいる。
好奇心の目。
値踏みする目。
研究対象としての目。
そしてときには、祝福や愛情に見える目。
けれど、その多くは、
無条件のまなざしではない。
理解しようとしながら、同時に分類し、
守ろうとしながら、どこかで管理しようとする。
私はここに、
「善意」と「支配」が、とても近い場所に並んでいる怖さを感じた。
見守っているつもりが、
いつの間にか行動の枠を決めてしまっている、あの感じ。
そして、ふと気づいてしまう。
観客である私たちの視線も、
その輪の外にはいない、ということに。
彼女の選択を見て、評価し、
共感できるか、できないかを測り、
「正しい」「間違っている」と心の中で線を引く。
その行為自体が、すでにひとつの関与なのだと。
視線が居心地を悪くする理由
・「見守る」と「監視する」の境界が、とても曖昧
・好意が、気づかないうちに所有や期待へ変わっていく
・観客の視線そのものが、物語の倫理に組み込まれてしまう
だからこの映画は、
観終わったあとも、
物語の内容より先に、
「自分は、どう見ていたのか」という問いを残す。
共感していたつもりだったのか。
距離を保っているつもりだったのか。
それとも、ただ安心して眺めていただけなのか。
その答えは、簡単には出ない。
でも、その答えの出なさこそが、
この作品が残す「わからなさ」の、
とても大切な一部なのだと思う。
美術と色彩がつくる「夢の距離」──美しいのに、なぜ冷たいのか

この映画を語るとき、
多くの人がまず口にするのが、
映像の美しさだと思う。
色彩は鮮やかで、
美術は緻密で、
どの一場面を切り取っても、
まるで絵本や絵画の中に迷い込んだようだ。
けれど不思議なことに、
その美しさが、
観る側の心をやさしく包んでくれるとは限らない。
むしろ、美しいのに、どこか冷たいという感触が残る。
私たちは普段、
映像の色や光から、
無意識のうちに感情のヒントを受け取っている。
やわらかな暖色。
影の少ない光。
そうした画面に触れると、
心と身体は「ここは安全だ」と、自然に緩む。
逆に、硬質な光や、
強すぎるコントラスト、
非現実的な色の重なりが続くと、
私たちは理由もなく、少しだけ身構えてしまう。
『哀れなるものたち』の映像は、
まさにその中間にある。
夢のように華やかで、
見ているだけで惹きつけられるのに、
その場に長く留まることを、どこか許してくれない。
うっとりする間もなく、
次の場面へ、次の色へと運ばれていく。
休息の居場所が、画面の中にほとんど存在しない。
これは脚本や台詞の問題というより、
映画全体で組み立てられた、
感情の「温度設計」なのだと思う。
私自身、美術展や舞台を観たあとに、
「美しかったはずなのに、なぜか疲れている」
そんな感覚を覚えたことがある。
あれはきっと、
心が休む前に、
次の刺激が押し寄せてきたからだ。
感動と緊張が、同時に続いてしまった。
この映画の美術と色彩も、
それにとても近い。
観客を魅了しながら、
安心する隙を、あえて与えない。
だからこそ、
「美しいのに意味がわからない」
「惹かれるのに、居心地が悪い」
そんな相反する感想が、自然と並び立つ。
この矛盾は、
作品の欠点ではなく、
むしろ、この映画が選んだ距離感なのだと思う。
夢の中にいるようで、
どこか目が覚めてしまう。
触れられそうで、触れられない。
その「夢との距離」こそが、
『哀れなるものたち』の映像が残す、
忘れがたい冷たさなのかもしれない。
フェミニズム映画として誤解されやすい理由

『哀れなるものたち』は、
しばしばフェミニズム映画として語られる。
それは決して間違いではないし、
そう受け取られるだけの強度を、この作品が持っているのも事実だ。
女性の身体がどう扱われるか。
誰に選択権があるのか。
何を「自由」と呼ぶのか。
そうした問いが、画面の隅々まで染み込んでいる。
けれど、この映画が少し意地悪なのは、
そこで立ち止まらないところだと思う。
「自由になれば幸せになれる」
その分かりやすい図式を、あっさり肯定してくれない。
自由は、確かに魅力的だ。
誰にも縛られず、自分で決められる。
でも同時に、
その選択の結果を引き受けるのも、
ひとりで立ち続けるのも、自分自身になる。
私自身、「自由でいること」に憧れた時期がある。
何にも属さず、何者にもならず、
好きなように生きられたら楽だろう、と。
でも実際に手にした自由は、
思っていたよりずっと静かで、
ときどき心細かった。
『哀れなるものたち』が描く自由も、
その感触にとても近い。
解放の高揚よりも、
孤独と責任が先に立つ自由だ。
だからこの作品は、
単純なフェミニズム映画として整理しようとすると、
どうしても零れ落ちるものが出てくる。
正しさの物語に回収しきれない、
ざらりとした感触が残る。
それは、思想が弱いからではない。
むしろ逆で、
一つの思想に安心して預けさせない強さを、
この映画が選んでいるからだと思う。
自由は祝福であり、同時に試練でもある。
その両方を見せようとするからこそ、
『哀れなるものたち』は、
フェミニズムという言葉だけでは、
どうしても語りきれないのだと思う。
ラストシーンは救いだったのか、それとも拒絶だったのか

ラストシーンを観終えた瞬間、
胸の奥に残る感触は、人によって大きく違うと思う。
「どこか救われた気がした」という人もいれば、
「突き放された」「冷たい終わりだった」と感じた人もいるだろう。
そして私は、その分断こそが、
この映画が最後に残した、いちばん誠実な部分だと思っている。
多くの映画は、
ラストで観客の感情をひとつの方向へまとめようとする。
安心させるか、感動させるか、納得させるか。
何らかの「着地点」を用意する。
けれど『哀れなるものたち』は、
その役割を、あっさりと手放してしまう。
救いとも拒絶とも断言できない余白を、
そのまま観客に差し出す。
このラストには、
「正しい解釈」は用意されていない。
代わりに置かれているのは、
解釈せずにはいられない静けさだ。
私自身、初めて観たとき、
どこか置いていかれたような気持ちになった。
ハッピーとも言えず、
かといって絶望でもない。
ただ、「ここから先は自分で考えて」と言われたような感覚だった。
でも時間が経つにつれて、
その感覚は少しずつ形を変えていった。
あのラストは、
物語の結論ではなく、
問いの始まりだったのだと。
「救われたかどうか」を決めるのは、
スクリーンの中の出来事ではない。
それを見つめている、
私たち自身の価値観や、
これまで選んできた生き方だ。
だからこの映画は、
最後にこう問い返してくる。
「あなたは、どう生きたいか」と。
救いか、拒絶か。
その答えは、作品の中にはない。
映画館を出たあと、
私たちがどんな自由を選び、
どんな孤独と折り合いをつけて生きていくのか。
その姿勢そのものが、答えになっていくのだと思う。
わからなかったあなたは、何も間違っていない

「正直、よくわからなかった」
「途中で置いていかれた気がした」
そんな感想を抱いた人も、きっと少なくないと思う。
でも私は、その感情を
失敗でも、理解力の問題でもなく、
この映画と真正面から向き合った証だと感じている。
『哀れなるものたち』は、
観客を導いてくれるタイプの作品ではない。
感情の正解も、
「こう受け取ってほしい」という親切な道しるべも、
ほとんど置かれていない。
だからこそ、
途中で戸惑ったり、
距離を感じたりするのは、とても自然な反応だ。
私自身も、
初めて観たときは、
どこか掴みきれない感覚を抱えたまま劇場を出た。
「理解できた」と言える自信は、正直なかった。
それでも時間が経つにつれて、
あのとき引っかかった感覚が、
少しずつ自分の中で言葉を持ちはじめた。
違和感は、
ただの拒否ではなく、
自分でも気づいていなかった価値観や感情に触れた痕跡
だったのかもしれない、と。
この映画は、
すべての観客に優しいわけではない。
むしろ、少し突き放すような距離感で、
こちらを見つめてくる。
でももし、
心のどこかが引っかかったなら。
モヤモヤしたまま、忘れきれずにいるなら。
その感覚は、
あなた自身の内側に、確かに触れている。
映画は、
すべてを理解するためだけに観るものではない。
むしろ、
理解できなかった夜にこそ、静かに残り続けるものがある。
わからなかったことを、
すぐに答えに変えなくていい。
そのまま抱えて、
いつかふと思い返すだけでいい。
※本記事は作品の解釈を一つに限定するものではありません。
感じた違和感や拒否感、置いていかれた感覚も含めて、
それぞれの映画体験として尊重されるべきものです。


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