実話をもとにした映画を観たあと、私はときどき、その人物の“映画になる前の時間”が気になります。
「スクリーンに映った人生」と「実際にその人が生きた人生」は、どこまで重なっているのだろう。
『栄光のバックホーム』も、そんなことを考えながら見つめたくなる作品です。
物語の中心にいるのは、阪神タイガースで背番号24をつけた横田慎太郎さん。
将来を期待されていた若い外野手でしたが、脳腫瘍を発症。治療とリハビリを続けながら現役復帰を目指し、2019年9月26日の引退試合でプロ野球人生最後のプレーを迎えます。
そこで生まれた送球は、のちに“奇跡のバックホーム”と呼ばれるようになりました。
この一球だけを切り取れば、とても劇的です。
だからこそ、少し立ち止まりたくなります。
横田慎太郎さんの人生は、本当に「あの一球」だけで語れるものだったのだろうか、と。
プロ野球選手になるまで積み重ねた時間がありました。病気によって、それまで描いていた未来が変わり、現役を退いたあとにも人生は続いています。
映画は、長い人生のすべてを映すことはできません。
だから実話映画を見るとき、私は「どこまで事実と同じなのか」だけではなく、何を残し、何を省き、どの瞬間をその人の物語として差し出したのかを見るようにしています。
同じ事実でも、どこから始めるか、誰の視線を通すか、どの場面で言葉を止めるかによって、その人物の見え方は変わります。
『栄光のバックホーム』も、その視点で見ていくと、“奇跡”という言葉の印象が少し変わってきます。
大切なのは、奇跡が起きたことだけではありません。
その一球へたどり着くまでに、一人の青年が何を願い、何に迷い、何を失い、それでも何を大切にしていたのか。
その時間まで知って初めて、“奇跡のバックホーム”という言葉が本当の重さを持つのだと思います。
そして、その人生を知るための入口になるのが、映画のもとになった2冊の原作です。
本人の言葉から見えてくる人生と、そばで見守った家族の側から見えてくる人生。
この記事では、『栄光のバックホーム』の2冊の原作、実話と映画の違い、作品に流れるテーマ、そして“24番”横田慎太郎さんが残したものを、事実と映画表現を分けながら読み解いていきます。
『栄光のバックホーム』の原作は2冊|『奇跡のバックホーム』との違い

『栄光のバックホーム』について調べていると、少し戸惑いやすいところがあります。
「原作は『奇跡のバックホーム』なの?」
「それとも、映画と同じタイトルの『栄光のバックホーム』?」
結論から言うと、映画の原作として位置づけられている書籍は2冊あります。
- 横田慎太郎『奇跡のバックホーム』
- 中井由梨子『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』
どちらも横田慎太郎さんの人生を扱った本ですが、同じ内容を別のタイトルで語り直したものではありません。
一冊は、横田慎太郎さん自身の側から見た人生。
もう一冊は、その人生をすぐそばで見ていた母の側からたどる物語です。
同じ出来事でも、「その渦中にいた人」と「そばで見守っていた人」では、記憶している景色も抱えていた感情も違います。
『奇跡のバックホーム』|横田慎太郎本人の言葉からたどる野球人生と闘病
横田慎太郎さん自身による『奇跡のバックホーム』では、プロ野球選手としての日々、脳腫瘍の発症、手術やリハビリ、視力の問題、現役復帰を目指した時間、そして引退試合までが本人の言葉で綴られています。
この本の大きさは、やはり「本人がどう感じていたのか」に近づけることだと思います。
スポーツ選手の人生は、どうしても数字や結果で整理されがちです。
何試合に出たのか。いつ病気になり、いつ復帰し、いつ引退したのか。
けれど、人が実際に生きている時間は、年表どおりには進みません。
「まだ野球をやりたい」という気持ちがあっても、身体が思うようについてこないことがある。前を向こうとしても、昨日と同じようには前を向けない日もある。
私は『奇跡のバックホーム』というタイトルを見るとき、“奇跡”という強い言葉の向こうにある奇跡ではなかった日々のほうへ目が向きます。
練習した日。悩んだ日。治療を受けた日。思うようにいかなかった日。それでも野球へ戻ろうとした日。
そうした時間を知ってから2019年9月26日のバックホームを見ると、「すごいプレーだった」だけでは終わらなくなります。
“この一球を投げた人は、ここへ来るまでに何を抱えていたのだろう”と、その前にあった人生へ目が向くからです。
『栄光のバックホーム』|母の目線から見えてくる、もう一つの横田慎太郎
もう一冊が、中井由梨子さんによる『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』です。
こちらは母・横田まなみさんとの対話を重ねながら、横田慎太郎さんの人生を母の目線から描いたノンフィクションです。
『奇跡のバックホーム』との大きな違いは、物語が2019年の引退試合で終わらないこと。
現役を退いたあとの人生、病の再発や転移、そして家族と過ごした時間までが描かれています。
病気になった本人には本人にしか分からない苦しさがあります。
でも同時に、そばにいる家族にも、その人たちにしか分からない時間があります。
助けたい。でも、代わってあげることはできない。励ましたい。でも、どんな言葉なら届くのか分からない。
私は、家族を描く実話作品を見るとき、この「何もしてあげられない時間も含めて、そばにいること」に目が向きます。
本人の物語だけでは見えにくい感情が、家族側へ視点を移した瞬間に見えてくることがあるからです。
2冊あるからこそ、「一人の英雄の物語」にならない
この2冊を並べると、映画『栄光のバックホーム』の輪郭も少し変わって見えてきます。
横田慎太郎さん本人の言葉だけでもない。家族から見た慎太郎さんだけでもない。
「生きた人」と「その人を見つめていた人」の両方に物語がある。
人の人生は、一人称だけでは完結しません。
誰かに支えられ、誰かを心配させ、誰かと笑い、本人の知らないところでも誰かがその人を思っている。
2冊の原作があることは、単なる書誌情報ではなく、横田慎太郎という人を一つの視点だけで決めつけないための、二つの入口なのだと思います。
| 原作 | 主な視点 | 見えてくるもの |
|---|---|---|
| 『奇跡のバックホーム』 | 横田慎太郎本人 | 野球人生、闘病、復帰への思い、引退までの内側 |
| 『栄光のバックホーム』 | 母・まなみさんの目線を軸にした家族側 | 引退後を含む人生、家族から見た慎太郎さん、そばで支えた時間 |
では、本で読む横田慎太郎さんと、映画で出会う横田慎太郎さんは、私たちにどう違って届くのでしょうか。
原作と映画、それぞれの“届き方”の違い
2冊の原作について知ると、次に気になってくるのが、「本で読む横田慎太郎さん」と「映画で出会う横田慎太郎さん」の違いです。
扱っているのは同じ一人の人生でも、文字と映像では、その人生を受け取る方法が違います。
本は「その人の言葉」のそばで立ち止まれる
本を読むとき、時間の使い方は読者に委ねられています。
気になる一文があればそこで止まれる。前のページへ戻ることも、本を閉じてしばらく考えることもできます。
本人が書いた言葉には、その出来事を実際に生きた人が、あとから自分の人生を振り返って選んだ言葉ならではの重さがあります。
だから『奇跡のバックホーム』を読むことには、出来事を詳しく知る以上の意味があります。
その人が自分の過去をどう見つめていたのか。その内側へ、少し近づくことができるんですね。
映画は「言葉にならなかったもの」まで見せられる
一方、映画では人物が「悲しい」と言わなくても悲しさが伝わることがあります。
俳優の表情、声の大きさ、返事までの間、人物同士の距離。音楽や環境音も、場面をどう感じるかに関わります。
つまり映画では、「何を言わなかったか」も人物をつくるんですね。
家族は、案外なんでも言葉にはしません。
長く一緒にいるからこそ説明しないこともあるし、心配しているからこそ普段どおりに振る舞うこともある。
そういう感情を、映画は視線や間の中に置くことができます。
映画には「観客が止められない時間」がある
本なら、つらいところでページを閉じることができます。
でも映画では、まだ気持ちを整理できていなくても物語は先へ進んでいきます。
少し乱暴に言えば、観客も時間に置いていかれることがある。
私はこれが、『栄光のバックホーム』のように戻らない時間を扱う作品とは、とても相性のいい映画体験だと思います。
| 原作を読む | 映画を観る |
|---|---|
| 本人や家族の言葉に長く留まれる | 表情・声・間・音まで含めて受け取れる |
| 自分のペースで戻って考えられる | 人物と一緒に時間を進んでいく |
| 語り手の内面や背景を深く知りやすい | 複数の人物の感情を同じ場面で感じられる |
原作と映画は、どちらか一方が“本当の横田慎太郎”を教えてくれるものではありません。
言葉だから近づける心があり、映像だから見えてくる人と人との距離がある。
二つを行き来したとき、一つの出来事だけでは見えなかった人生の輪郭が広がっていくのだと思います。
では、映画で描かれていることは、実際の出来事とどこまで同じなのでしょうか。
実話と映画はどこまで同じ?|『栄光のバックホーム』で映画化された人生
『栄光のバックホーム』を観ていると、ふと気になる瞬間があります。
「この場面も、本当にあったことなのかな」
横田慎太郎さんが阪神タイガースの選手だったこと。若くして脳腫瘍を発症したこと。治療とリハビリを続け、現役復帰を目指したこと。そして2019年9月26日の引退試合で、あのバックホームが生まれたこと。
物語の土台には、実際に横田さんが生きた人生があります。
ただし、「実話をもとにした映画」と「現実をそのまま記録した映像」は別です。
実在した人の人生は、二時間前後できれいに始まり、伏線がつながり、クライマックスへ向かって進んでいくわけではありません。
映画化するということは、長い時間の中から、「この人生を観客へどう渡すのか」を考えて一本の流れにしていくことでもあります。
事実を並べるだけでは、「一人の人生」にはならない
横田慎太郎さんの人生を事実だけで追うなら、年表を作ることもできます。
プロ野球選手になる。阪神タイガースに入団する。病気が分かる。治療する。復帰を目指す。引退する。
でも、それだけで横田慎太郎さんという人を知ったことにはならない気がします。
人を知るときに心へ残るのは、その出来事の中で何を大切にしていたのか、誰と過ごしていたのか、どんなふうに生きようとしていたのかだからです。
だから実話映画では、「何があったか」と同じくらい、「その出来事を誰との関係の中で見せるか」が重要になります。
“奇跡のバックホーム”だけでは、この物語にはならない
2019年9月26日の引退試合で生まれたバックホームは、あまりにも象徴的な出来事です。
でも、あの一球だけを見せられたとしても、今と同じ意味では受け取れないはずです。
そこへ至るまでに何があったのか。なぜ、その一球を投げること自体に意味があったのか。
そうした時間を知ることで、ただの好プレーだったものに、その人の人生が重なってきます。
映画が見せるのは、奇跡そのものというより、なぜ私たちがその一球を“奇跡”と呼びたくなるのかなのかもしれません。
映画にない出来事を「なかったこと」にしない
一方で、映画に登場しなかった出来事を「現実にも存在しなかった」と考えないことも大切です。
一本の映画には時間の限界があります。
長い期間をかけて起きたことが短く整理されたり、出来事の見せ方や順序が調整されたりすることもあります。
映画の中で交わされるセリフについても、それが現実で一字一句同じように交わされたと断定するのは慎重でありたいところです。
映画は映画として受け取り、そのあとに原作や実際の記録へ戻ってみる。
そうすると、「映画ではここを選んだんだ」「現実には、この場面の向こうにも時間があったんだ」と、人物の人生が映画の外側へ広がっていきます。
「どこまで実話?」より、もう一歩先へ
「どこまでが実話なのか」を確認することはもちろん大切です。
ただ、私がその先で考えたくなるのは、
「なぜ映画は、この出来事を残したのだろう」
「なぜ、この人物の視点から見せたのだろう」
ということです。
映画化とは、長い人生から何かを選ぶことです。
選ばれたものだけでなく、その選び方にも作品の価値観は表れます。
実話映画で考えたいのは、「映画と現実のどちらが正しいか」だけではありません。
映画が実在した人生から何を選び、その選択によって私たちは人物をどう受け取るのか。
そして映画の外側には、まだ映されていない人生がある。その両方を忘れないことが大切なのだと思います。
テーマ考察|『栄光のバックホーム』が描く「時間」と「喪失」

『栄光のバックホーム』をひと言で紹介するなら、「病と闘ったプロ野球選手の実話」となるのかもしれません。
でも私は、この作品を“闘病”や“奇跡”だけで包んでしまうと、横田慎太郎さんの人生から少し離れてしまう気がしています。
この物語の奥に流れているのは、昨日まで思い描いていた未来が、そのままでは続かなくなること。
そして、戻らない時間の中で、それでも自分の人生を生きていくことです。
だから私は『栄光のバックホーム』を、単純な“克服の物語”ではなく、失ったものがある人生を、そのあとどう生きるのかを見つめる物語として受け取っています。
① 「元の自分」に戻れない痛み
横田慎太郎さんにとって、野球は単なる仕事ではなかったはずです。
幼い頃から続け、プロ野球選手になり、自分の身体を使って積み重ねてきたもの。
「野球をする自分」は、自分が自分であることを支える大きな一部だったのではないでしょうか。
心理学では、自分を「どんな人間だと思っているか」という感覚をアイデンティティとして捉えます。
それが突然続けられなくなったとき、失うのは行動だけではありません。
「では、自分は何者なのだろう」というところまで揺れることがあります。
野球が好きなのに、以前と同じようには野球ができない。戻りたい場所が見えているのに、身体は思いだけでは動いてくれない。
その痛みは、「野球ができない」という一言だけでは言い表せません。
② 人は「今」だけでなく、思い描いていた未来も失う
喪失というと、「何かがなくなること」を想像します。
でも実際には、まだ起きていなかった未来を失うこともあります。
「来年もここにいると思っていた」
「この仕事をずっと続けると思っていた」
「もっと先まで、この人と一緒にいられると思っていた」
そんな“予定していた未来”が突然なくなる。
横田さんにも、もっと試合に出たい、もっと成長したい、もっと野球を続けたいという未来があったでしょう。
だから病気によって変わったのは、その時点の生活だけではありません。
「これから先、自分はこう生きていくはずだった」という未来の形そのものが変わったのです。
この視点を持つと、『栄光のバックホーム』は野球選手だけの物語ではなくなります。
③ 人は一直線に「立ち直る」わけではない
こうした実話を扱うとき、私は「乗り越えた」という言葉を少し慎重に使いたくなります。
苦難があり、努力があり、それを乗り越えて前へ進む。物語としては分かりやすい構図です。
でも、人の心はそんなにきれいな右肩上がりではありません。
昨日は前向きだったのに、今日は苦しくなる。受け入れたと思っていても、何かの拍子に悔しさが戻ることもある。
だから横田さんの人生も、「元の選手に戻れたか」という一本の物差しだけでは見たくありません。
戻れない現実の中で、そのときの自分にできることを探し続けた。
その時間そのものに目を向けたいと思うのです。
④ “奇跡のバックホーム”は、すべてを取り戻した奇跡だったのか
そう考えると、2019年9月26日の“奇跡のバックホーム”も少し違って見えてきます。
あの一球によって、病気になる前へ戻れたわけではありません。
失ったものがすべて返ってきたわけでも、それまでの苦しさが消えたわけでもない。
だから私は、あのバックホームを「すべてを取り戻した奇跡」として見るより、別の受け取り方をしたくなります。
野球を始めた少年の時間。プロを目指した時間。阪神タイガースのユニフォームを着た時間。病気と向き合った時間。もう一度グラウンドへ立とうとした時間。
それまで積み重なっていたものが、一つの送球の中に重なって見えた。
奇跡とは、失ったものが全部戻ってくることではない。
戻らないものがあると知ったあとでも、その人が生きてきた時間が無意味にならないこと。
あのバックホームには、そんな“取り戻すこととは違う奇跡”があったように感じます。
⑤ 人がいなくなったあとにも、“残るもの”がある
そして、この作品から考えたくなるのが「残る」ということです。
人は大切なものを失ったあと、すべてを忘れて前へ進むわけではありません。
家族の記憶に残っている慎太郎さんがいる。仲間が覚えている慎太郎さんがいる。野球ファンの記憶には、背番号24とあのバックホームが残っています。
本人が綴った『奇跡のバックホーム』があり、中井由梨子さんによる『栄光のバックホーム』があり、映画という形でも人生が語り継がれていく。
横田さんを直接知らなかった人が、映画をきっかけに名前を知り、原作を手に取ることもあります。
一人の人生が終わっても、その人から受け取ったものまで終わるとは限らない。
私は、「“24番”が残したもの」という言葉を、そんなふうに受け取りたいと思います。
脚本心理分析|結末を知っていても『栄光のバックホーム』が心を動かす理由
実話映画には、少し不思議なところがあります。
横田慎太郎さんについて知っている人なら、“奇跡のバックホーム”も、その後の人生も完全な未知ではありません。
それでも最後まで見てしまう。それどころか、結末を知っているからこそ、何気ない場面で胸が詰まることさえあります。
私は、ここに実話映画ならではの強さがあると思っています。
観客を動かしているのは、「何が起こるか」ではなく、「知っている出来事の意味が少しずつ変わっていくこと」だからです。
① 結末を知っているから、何気ない日常が特別になる
普通の物語では、未来が分からないことが緊張感になります。
ところが実話映画では、未来を知っているからこそ何でもない時間の意味が変わります。
誰かと笑っている。野球の話をしている。家族と同じ場所にいる。
登場人物はまだ未来を知りません。でも観客は、その先を知っている。
この“情報の差”が、ただの日常を「あとから振り返れば、かけがえのない時間だった」と見せることがあります。
結末を知っていることは、感動を弱めるのではなく、日常を見る目を変えることがある。
それが実話映画の一つの強さです。
② 感情は、セリフより「言えなかったこと」に宿る
家族や身近な人との関係が大きな意味を持つ作品では、私はセリフそのものより、言葉にならなかった感情を意識して見ます。
現実の人間関係では、思っていることをすべて言えるわけではありません。
心配していても、あえて普通に話す。励ましたいのに、何を言えばいいのか分からない。
映画では、俳優の表情、視線、声の変化、返事までの間、相手との距離によって、そうした感情を見せることができます。
少しだけ余白があると、観客自身の経験がそこへ入り込みます。
「あのとき、あの人もこんな気持ちだったのかもしれない」。
その瞬間、映画の中の人物が“知らない誰か”ではなくなっていくんですね。
③ 「すごい一球」から「この人が投げた一球」へ変わる
“奇跡のバックホーム”という言葉だけを聞けば、最初に浮かぶのはプレーのすごさです。
でも映画は、その一球へ至るまでの時間を見せます。
人物の日常を知り、関係を知り、迷いを知る。
すると、観客の中で同じバックホームの意味が変わっていきます。
最初は「すごい一球」だったものが、
「この人が、この一球を投げた」
という出来事になる。
映画が書き換えているのは事実ではありません。
観客の中にある、その事実の意味なのだと思います。
④ 「奇跡の人」ではなく、一人の人間として近づく
実在人物を扱う作品には、その人を分かりやすい言葉へ閉じ込めてしまう難しさがあります。
「病と闘った野球選手」
「奇跡を起こした24番」
どれも横田慎太郎さんの一面ではあります。
でも、人は一つのキャッチコピーだけで生きているわけではありません。
迷う日もあれば、悔しい日もある。普通に笑った時間もある。
私は、実話映画が人物へ近づく瞬間は、主人公を“立派な人”として完成させたときではなく、一言では説明できない人間として見せたときだと思っています。
結末を知っている実話映画で心が動くのは、驚かされるからではありません。
その出来事の手前にあった日常を知り、人物との距離が変わり、最後には同じ出来事を以前とは違う意味で受け取る。
その“意味の変化”こそが、実話映画の大きな力なのだと思います。
だから『栄光のバックホーム』は、一度物語を知ったあとでも見返す意味があります。
一度目は横田慎太郎さんを追っていた場面で、二度目には家族の表情が気になるかもしれません。
一度目は「何が起きたのか」を見て、二度目は「そのとき誰が何を抱えていたのか」を見る。
『栄光のバックホーム』をこれから観たい方や、原作・実話を知ったうえでもう一度見返したい方は、現在の配信状況をこちらで確認できます。
▶ 『栄光のバックホーム』はどこで見れる?配信・VOD最新情報はこちら
配信先は時期によって変わるため、鑑賞前に最新情報を確認してみてください。
『栄光のバックホーム』鑑賞後に、自分へ問いかけてみたい4つのこと
いい映画は、必ずしもきれいな答えを渡してくれるわけではありません。
むしろエンドロールが終わってから、自分の中に小さな問いが残ることがあります。
正しい答えを出す必要はありません。観終わった今だからこそ、少しだけ自分に聞いてみたいことがあります。
① もし「これまでの自分」でいられなくなったら、何を大切にしたいだろう?
仕事、夢、肩書き、好きなこと。もしその一つを失ったとしても、自分の中に残したいものは何でしょうか。
② 叶わなかった夢は、本当に“失敗”なのだろうか?
夢は結果だけで語られがちです。でも、そこへ向かった時間や出会った人まで消えてしまうわけではありません。
③ いま、伝えておきたい言葉は誰かにないだろうか?
「ありがとう」でも、「元気?」でも、「また会おう」でもいい。言える時間がずっと続くとは限りません。
④ 自分は、誰かの中に何を残していくのだろう?
人が残すものは、大きな実績だけではありません。何気なくかけた言葉や、一緒に過ごした時間が、誰かの記憶に長く残ることもあります。
この4つの問いに、今すぐ答えを出さなくてもいいと思います。
『栄光のバックホーム』から何を持ち帰るかも、人によって違います。
野球を続けようとした姿かもしれない。家族との時間かもしれない。2019年9月26日のバックホームかもしれません。
あるいは横田慎太郎さんの物語を観ていたはずなのに、いつの間にか自分の家族や、昔の夢や、もう会えない誰かを思い出している人もいるでしょう。
私は、それでいいと思うんです。
映画の中に答えを探すだけではなく、映画を通して、自分の中にあったものに気づく。
物語がスクリーンの中だけで終わらず、観た人の日常へ続いていく。そんな時間も、この映画が残すものなのかもしれません。
まとめ|“24番”横田慎太郎が残したものは、奇跡の一球だけではない
『栄光のバックホーム』の原作と実話をたどると、“奇跡のバックホーム”という言葉の見え方が少し変わってきます。
2019年9月26日の一球は、横田慎太郎さんを語るうえで忘れることのできない出来事です。
けれど、その一球の前にも、そのあとにも人生がありました。
横田慎太郎さん自身が綴った『奇跡のバックホーム』からは、本人の側から見た野球人生と闘病が見えてきます。
中井由梨子さんの『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』からは、母・まなみさんの目線を軸に、本人だけでは語りきれない家族の時間や引退後の人生が見えてきます。
そして映画は、その二つの視点を受け取りながら、一人の青年の人生を映像として私たちの前に差し出します。
“24番”が残したものは、奇跡の一球だけではありません。
夢を追ったこと。思いどおりにならない現実と向き合ったこと。そして誰かの記憶に残ったこと。
そのすべてを含めた時間が、横田慎太郎さんの人生だったのだと思います。
本人の言葉として残り、家族の記憶として語られ、本になり、映画になる。
そして映画を観た人が、横田慎太郎という名前を初めて知る。
そう考えると、“奇跡のバックホーム”は物語の終着点ではなく、私たちにとっては入口なのかもしれません。
あの一球から、背番号24ではなく「横田慎太郎という人」を知り始める。
そのとき、“奇跡のバックホーム”という言葉も、最初とは少し違って聞こえてきます。
情報ソース・参考資料
本記事では、映画『栄光のバックホーム』公式サイト、および原作2冊を刊行する幻冬舎の公式情報を中心に、横田慎太郎さんの経歴、原作、映画化の経緯、作品の基本情報について確認しています。
実在した人物を扱う作品だからこそ、映画の中で描かれた内容だけを事実として扱うのではなく、確認できる事実と、作品を観たうえでの考察・解釈をできるだけ分けて記述することを大切にしています。
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映画『栄光のバックホーム』公式サイト|ABOUT THE MOVIE
https://gaga.ne.jp/eikounobackhome/about/
映画の作品概要、原作、キャスト・スタッフ、横田慎太郎さんのプロフィール、2019年9月26日の引退試合、映画化までの経緯などを確認しています。映画が横田慎太郎さんの『奇跡のバックホーム』と、中井由梨子さんの『栄光のバックホーム』の2冊をもとに制作されていることも、こちらで確認しています。 -
幻冬舎|横田慎太郎『奇跡のバックホーム』
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344037847/
2021年5月12日に刊行された横田慎太郎さん自身による自伝的エッセイ。脳腫瘍の診断と手術、闘病とリハビリ、現役引退、2019年9月26日の引退試合で生まれた“奇跡のバックホーム”など、本人の側からたどる野球人生を確認するために参照しています。 -
幻冬舎|中井由梨子『栄光のバックホーム 横田慎太郎、永遠の背番号24』
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344042094/
2023年11月7日に刊行された、母の目線から横田慎太郎さんの人生を描くノンフィクション。2019年の引退後、病の再発・転移と向き合った時間を含め、家族側から見た横田慎太郎さんの人生を確認するために参照しています。
本記事のうち、横田慎太郎さんの経歴、病気、引退試合、原作書籍、映画化などの基本情報については、上記の公式情報をもとに確認しています。
一方、「時間と喪失」というテーマの読み解きや人物心理、脚本構造、“奇跡のバックホーム”が物語の中で持つ意味などには、確認できる事実を土台にした独自の考察・解釈を含みます。実話をもとにした映画はドキュメンタリーそのものではないため、映画内の会話や場面のすべてが現実でも一字一句・同じ状況で起きたものとは断定していません。
正式な作品情報や原作内容については、映画公式サイトおよび出版社公式ページをご確認ください。



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