ロケ地|聖地巡礼|場所×感情考察
物語を思い出すとき、私たちがいちばん最初に浮かべるのは、
セリフでも、結末でもなく、風景だったりします。
何気ない図書館の光。
夕方の橋の風。
ふたりが並んで歩いた道の、少しだけ湿った空気。
『君の膵臓をたべたい』のロケ地は、派手な観光名所というより、
生活の延長線上にある場所が多い。
だからこそ、画面の中の出来事が「作りもの」ではなく、
私たちの現実へ、静かにつながって見えるのだと思います。
ロケ地は、背景じゃない。
感情が落ちる場所であり、記憶が住みつく器だ。
先に、ひとつだけ。
本作のロケ地は、観光地というより生活の延長にある場所が多いです。
訪れる際は、立ち止まる時間・撮影の可否・私有地への立ち入りなど、
現地のルールと周囲への配慮を最優先にしてください。
その場所の日常を壊さないことが、いちばん美しい巡礼の作法だと思います。
このページでは、ロケ地を「一覧としてまとめる」だけでなく、
それぞれの場所が、物語の中でどんなふうに感情を担っていたのかにも触れていきます。
そして、聖地巡礼が「観光」ではなく、
追体験になってしまう理由も。
たぶん私たちは、場所を見に行くのではなく、
あのとき感じた自分に会いに行ってしまうからです。
この記事でわかること
- 『君の膵臓をたべたい』のロケ地一覧(図書館/橋/街 ほか)
- 各ロケ地が担っていた感情の役割(場所の意味)
- 聖地巡礼が「観光」ではなく「追体験」になる理由
- 巡礼前に知っておきたい行き方・マナー・注意点
※ロケ地は変更・立入制限が発生することがあります。訪問前に最新情報をご確認ください。
ロケ地を探していたはずなのに、思い出したのは感情だった

ロケ地を調べていたはずなのに。
行き方や最寄り駅を確認して、
写真を並べて見比べていただけなのに。
気づいたら、私の中に浮かんでいたのは、
地名でも、建物の名前でもなく、
あのとき胸の奥を通り過ぎた、鈍い痛みだった。
なぜ、あの図書館だけが、こんなにも強く残っているのだろう。
なぜ、特別な出来事が起きたわけでもない橋の上が、
今も思い出すたびに、少しだけ息を詰まらせるのだろう。
ロケ地という言葉は、
本来なら「撮影された場所」という、
とても事務的な意味しか持たないはずです。
けれどこの映画に限っては、
場所が、ただの舞台装置として機能していない。
もっと静かで、もっと個人的な役割を担っているように感じます。
この映画のロケ地は、背景ではない。
感情を代弁する「沈黙の登場人物」
として、そこに置かれている。
人は、感情をそのままの形では、長く覚えていられません。
だから代わりに、
その感情が宿った場所を記憶する。
あのとき、何を感じたのか。
どんな気持ちで、誰の隣に立っていたのか。
それらは時間とともに曖昧になるけれど、
風景だけは、
まるで感情の保存容器のように、
そのままの温度で残り続けてしまう。
だから私たちは、
「ロケ地を見に行きたい」と言いながら、
実は、あのときの自分に、もう一度触れに行こうとしているのかもしれません。
『君の膵臓をたべたい』のロケ地が、こんなにも特別に感じられる理由

この映画のロケ地を思い返すと、
「きれいだった」「有名だった」という記憶が、ほとんど残っていないことに気づきます。
代わりに残っているのは、
その場所でどんな気持ちになったかという感覚だけ。
観光地ではなく、「生活の延長」が選ばれている
本作の撮影地は、
観光ガイドに載るような名所ではありません。
図書館、通学路、橋、街角。
どれも、誰かの日常の途中に、静かに存在している場所です。
それは意図的な選択だったのだと思います。
派手な景色で観客の視線を引きつけてしまうと、
感情はどうしても風景の後ろに隠れてしまうから。
生活の延長にある場所は、
こちらに何も語りかけてきません。
説明もしないし、感動を強要もしない。
だからこそ、
私たちの心が、勝手に感情を流し込んでしまう。
派手さを排除したことで、感情が風景に宿る
この映画のロケ地は、
「映える」ために選ばれているわけではありません。
むしろ意識的に、
記号的な美しさや、分かりやすい象徴性を避けているように感じます。
その代わりに映し出されているのは、
人物同士の距離と、残された時間の短さ。
何も起きていないはずの風景なのに、
そこに立つ二人の距離が少し縮まっただけで、
空気が変わる。
そして、
「またここに来よう」と言える未来が、
当たり前ではないと知った瞬間、
風景そのものが、感情を帯び始める。
ロケ地は、感情を演出するための装置ではない。
感情が、あとから染み込んでしまう場所
として、そこに残されている。
だからこの映画は、
「泣けた」という記憶よりも先に、
「忘れられない場所」を、心の中に残していく。
派手さを削ぎ落とした結果、
風景は背景ではなくなり、
感情の一部として、私たちの中に住みつづける。
それが、『君の膵臓をたべたい』のロケ地が、
ただの撮影場所では終わらない理由なのだと思います。
ロケ地一覧|場所ごとに読み解く「感情の役割」

この映画のロケ地を一覧で眺めていると、
ひとつの共通点に気づきます。
それは、どの場所も、強い主張をしていないということ。
観光地としての派手さも、象徴的なランドマーク性も、あまり前に出てこない。
けれど、その代わりに、
感情だけが、静かに、確実に染み込んでいく。
| ロケ地(撮影場所) | 印象に残るシーン | その場所が担う感情 |
|---|---|---|
|
旧豊郷小学校(酬徳記念館) 図書館のシーン |
静けさ/言葉の少なさ | 安全な距離(踏み込みすぎない関係) |
|
伏見であい橋(京都) 印象的な通学風景 |
桜/すれ違い | 境界と交差(出会いと別れの予感) |
| 福博であい橋(福岡) | 移動/街の音 | 世界は続く(喪失と無関心) |
| 天神南駅周辺(福岡) | 人の流れ/日常の速度 | 止まらない時間 |
| 太宰府天満宮(福岡) | 少し特別な旅 | 祈りと願い(言葉にしない想い) |
図書館|関係が始まった「安全な距離」
図書館という場所は、
関係性の始まりとして、あまりにも静かです。
声を張ることもできず、
感情をぶつけることもできない。
その代わり、沈黙や視線が、会話と同じ重さを持ってしまう。
場所の意味:
踏み込みすぎない優しさ/閉じた心の避難所。
距離があったからこそ、続いた時間があった。
学校|何も起きない日常が、感情を育ててしまう
学校は、劇的な出来事が起きる場所ではありません。
むしろ、同じことが繰り返される場所です。
だからこそ、
その反復の中に生まれた小さな変化が、
後になって、痛いほど鮮明に思い出される。
場所の意味:
日常/未完成な関係/「また明日」が前提の世界。
この前提が崩れたとき、私たちは初めて「失った」と知る。
橋|感情の境界線(伏見であい橋)
橋は、本来、渡るための場所です。
けれど映画の中では、なぜか立ち止まってしまう。
それは橋が、
こちらと向こう、過去と未来、言えた言葉と言えなかった言葉
その境界に、否応なく立たされる場所だから。
場所の意味:
交差/予兆/「出会い」という形をした境界線。
桜の季節には、“今しかない”が視界いっぱいに広がる。
桜のある場所|有限性を「美しさ」で包んでしまう
桜は、咲いた瞬間から散り始めます。
だからこそ、人はその美しさに惹かれてしまう。
この映画における桜は、癒しではありません。
「いつか終わる」ことを、黙って肯定してしまう風景です。
街の風景|世界は続いていくという残酷さ
福岡の街は、
観る側にとても静かなメッセージを投げかけます。
「誰かが深く傷ついても、世界は同じ速度で進む」
場所の意味:
止まらない時間/個人的な悲しみと世界の無関心。
だから思い出は、心の中でだけ大きくなる。
ロケ地巡礼は、
場所を「確認する」行為ではありません。
あの物語の中で、
自分の感情が、どこに置かれていたのかを、
そっと確かめにいく行為なのだと思います。
なぜ聖地巡礼は「感情の追体験」になるのか

聖地巡礼という言葉を聞くと、
どこか「作品をなぞる行為」や「ファン的な行動」だと受け取られがちです。
けれど実際に足を運んでみると、
そこで起きているのは、もっと静かで、もっと個人的な体験だと気づきます。
同じ場所に立つと、「距離」が戻ってくる
聖地巡礼が胸に響く理由は、
「同じ場所に立てた」という事実そのものではありません。
同じ距離感。
同じ目線の高さ。
同じ時間帯の光の入り方。
そして、思った以上に音の少ない沈黙。
映画を観ていたときには意識しきれなかったそれらが、
身体を通して、一気に戻ってきます。
私自身、橋の上に立ったとき、
特別なことは何も起きなかったのに、
なぜか胸の奥が、きゅっと縮む感覚がありました。
それは記憶の再生というより、
感情の距離感が、元の位置に戻ったような感覚に近かった。
観光と聖地巡礼の違いは、「持ち帰るもの」
観光は、景色を持ち帰ります。
写真や思い出や、「きれいだった」という感想。
一方で、聖地巡礼が持ち帰らせるのは、
整理されていない感情です。
うまく言葉にできない違和感。
どこか懐かしくて、少し苦しい感覚。
「あのとき、確かにこう感じていた」という、説明できない実感。
だから、聖地巡礼のあとに残るのは、
すっきりした満足感ではないことが多い。
むしろ、
感情が、少しだけ深い場所に戻されてしまう。
映画は終わった。
けれど、場所は残っている。
だから私たちは、もう一度そこへ行ってしまう。
それは、物語をなぞるためではなく、
あの時間に置き去りにしてきた自分の感情を、
そっと迎えに行くためなのかもしれません。
聖地巡礼とは、
作品の中に入る行為ではなく、
作品を通して開いてしまった心に、もう一度触れる行為。
だからこそ、それは観光とはまったく違う疲れ方をして、
それでも不思議と、忘れられない体験として残るのだと思います。
ロケ地巡礼をする前に、知っておきたいこと

ロケ地巡礼という言葉には、
どこか高揚感や特別感がつきまといます。
けれどこの作品の舞台は、
テーマパークのように用意された場所ではありません。
誰かの日常が、今も続いている場所です。
だからこそ、巡礼に出る前に、
少しだけ立ち止まって、心構えを整えておくことが大切だと感じます。
マナー|そこは「生活圏」だということを忘れない
映画の中では静かに流れていた時間も、
現実では、仕事や通学、買い物や暮らしの動線の中にあります。
ロケ地に立ったとき、
まず意識したいのは、「自分は今、誰かの日常にお邪魔している」という感覚です。
- 通行の妨げにならない位置で立ち止まる
- 建物内では、撮影可否・見学ルールを必ず確認する
- 私有地・学校施設・住宅付近では特に慎重に行動する
- 同じ構図での撮影は短時間にし、混雑時は譲り合う
これは堅苦しいルールではなく、
その場所が持つ空気を壊さないための配慮だと思っています。
静かに立ってみると分かりますが、
無理に写真を撮らなくても、
風の音や人の足音だけで、十分に感情は戻ってくる。
行き方のコツ|「点」ではなく「流れ」で考える
ロケ地巡礼は、
あれもこれもと欲張って回ると、
思った以上に疲れてしまいます。
個人的におすすめなのは、
駅・橋・公共施設などを「起点」にして、流れを作ること。
たとえば、
天神南駅周辺 → 福博であい橋 → 太宰府
というように、移動の方向性を先に決めておく。
そうすると、
「次はどこへ行こう」と焦ることなく、
ひとつひとつの場所で、感情をちゃんと味わう余裕が生まれます。
ロケ地巡礼は、
チェックリストを消化する旅ではありません。
心が動いた場所で、少し長く立ち止まる
それくらいの余白があったほうが、
この作品が残した感情には、ちょうどいいのだと思います。
ロケ地マップ(保存用)
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ロケ地を巡るとき、
頭の中だけで場所を整理しようとすると、
どうしても「次はどこだったかな」と気持ちが散ってしまいます。
そんなときに役立つのが、
自分用のロケ地マップです。
ただの移動手段としてではなく、
感情の流れをなぞるための地図として使えるのが、いちばんの魅力だと感じています。
ここに Googleマップ(マイマップ)を埋め込んでおくと便利です。
例としては、次のような場所をピン留めしておくと、巡礼の流れが見えやすくなります。
- 旧豊郷小学校(酬徳記念館)
- 伏見であい橋(京都)
- 天神南駅周辺(福岡)
- 福博であい橋(福岡)
- 太宰府天満宮(福岡)
※作成方法の一例:
Googleマップで「マイマップ」を作成 → ロケ地を登録 → 共有設定 →
「地図を埋め込む」から iframe を取得し、ここに貼り付け。
マップを作ってみると、
ロケ地同士の距離や配置が、思った以上に意味を持っていることに気づきます。
静かな場所から、
人の流れが速い場所へ。
閉じた空間から、ひらけた場所へ。
それはまるで、
物語の中で感情が移ろっていく順番を、
地図の上でなぞり直しているような感覚です。
すべてを回らなくても構いません。
心が反応した場所に、ひとつ印をつけるだけでもいい。
このマップは、観光のためのものではなく、
あの映画が残した感情を、静かに持ち帰るための地図
です。
この映画が“場所”に託したもの

この映画には、
あえて言葉にされなかった感情が、たくさんあります。
好きだった、怖かった、寂しかった。
本当は言いたかったけれど、
言葉にした瞬間、壊れてしまいそうで、胸の奥にしまわれたままの気持ち。
それらは、
台詞として説明されることはありませんでした。
代わりに、風景の中に、そっと預けられていたのだと思います。
図書館の静けさ。
橋の上を吹き抜ける風。
人の流れが途切れない街の音。
それらは感情を語らない。
でも、否定もしない。
ただそこにあって、
感じる余地だけを残している。
言葉にできなかった感情ほど、
場所に触れたとき、静かに戻ってくる。
映画は、終わります。
エンドロールが流れ、
物語としての時間は、確かに幕を閉じる。
けれど、
この映画が選んだ場所は、終わりません。
今日も誰かが歩き、
何も知らないまま橋を渡り、
図書館でページをめくっている。
その「何も変わらない日常」の中に、
私たちは、あの物語の続きを重ねてしまう。
ロケ地を訪れるという行為は、
物語をなぞることではありません。
映画が置いていった感情を、
自分の時間の中で、もう一度引き受けること
なのだと思います。
映画は終わっても、
場所は続いている。
そして、その続きの時間の中で、
私たちもまた、
何かを抱えながら、静かに生きている。
だからこそ、
この映画のロケ地は、
「行って終わり」にはならない。
思い出したとき、
ふと胸の奥が揺れたとき、
あの場所は、また心の中で立ち上がる。
それがきっと、
この映画が“場所”に託した、
いちばん静かで、いちばん誠実な余韻なのだと思います。
FAQ|よくある質問

Q. 『君の膵臓をたべたい』の図書館シーンは、どこで撮影されたの?
図書館の印象的なシーンは、滋賀県にある
:contentReference[oaicite:0]{index=0}
で撮影されたことで知られています。
あの静けさや、少し距離のある空気感は、
セットではなく、実際の建物が持つ時間の積み重なりがあってこそ生まれたものだと感じます。
見学は可能ですが、
開館日・撮影可否・立ち入り可能エリアなどは時期によって変わることがあります。
訪問前に必ず公式情報を確認し、静かに過ごす場所であることを忘れずに。
Q. ポスターにも使われている、桜の橋はどこ?
あの印象的な橋としてよく挙げられるのが、京都の
:contentReference[oaicite:1]{index=1}
です。
桜の季節には、
「何も起きていないはずなのに、なぜか胸が締めつけられる」
そんな感覚を覚える人が多い場所でもあります。
ただし春は特に混雑します。
早朝や平日を選ぶ、立ち止まる時間を短くするなど、
周囲への配慮を忘れずに訪れてください。
Q. 聖地巡礼って、観光目的で行っても大丈夫?
もちろん可能です。
ただ、この作品のロケ地は、いわゆる観光名所というより、
人の生活や日常の延長にある場所が多いのが特徴です。
写真を撮ることよりも、
その場の空気を乱さないことを優先してほしいと思います。
撮影禁止エリアには入らない。
通行の妨げになる場所では立ち止まらない。
それだけで、その場所が持つ静けさは守られます。
聖地巡礼は、
「行った証拠」を残すためのものではなく、
感情をそっと持ち帰るための時間だと、私は思っています。
情報ソース・注意書き

本記事は、映画『君の膵臓をたべたい』に登場するロケ地について、
公開されている情報(自治体・観光関連メディア・ロケーションオフィス資料など)を参照しながら執筆しています。
ただし、ここで扱っているのは
「どこで撮影されたか」という事実の整理だけではありません。
風景が物語の中でどんな役割を担っていたのか。
距離、境界、有限性、そして世界が止まらず進んでいく速度。
そうした感情の設計を、脚本構造や演出心理の視点から言葉にしています。
ロケ地は、時間とともに運用状況や立ち入り可否が変わることがあります。
訪問を予定されている場合は、必ず事前に各施設・自治体の最新情報をご確認ください。
また、本作の撮影地には、
住宅地や学校、日常生活の場が多く含まれています。
ロケ地は「観る場所」ではなく、
誰かが今も生きている場所です。
静かに立ち止まること。
撮影や見学のルールを守ること。
周囲の人の時間を邪魔しないこと。
それらはマナーである以前に、
この映画が大切にしていた「距離感」を、
私たち自身が引き継ぐ行為なのだと思います。
-
映画.com|『君の膵臓をたべたい(2017)』作品情報
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滋賀ロケーションオフィス|ロケ地マップ(PDF)
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とっておきの京都|伏見であい橋(ロケ地紹介)
-
よかなび(福岡市観光情報)|ロケ地めぐり記事
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Go! Fukuoka|Filming locations in Fukuoka
※本記事は、特定の解釈や感じ方を正解として示すものではありません。
風景とあなたの感情のあいだに生まれた体験そのものを、
大切にしていただければと思います。


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