『哀れなるものたち』を観終えたあと、
「面白かった」と言い切るより先に、
「……結局、これは何だったんだろう」
と立ち止まった人は、たぶん少なくないと思います。
映像は、とんでもなく美しい。
衣装も、美術も、身体の動きも、現実から少しだけ外れた絵本のようで、目を離しにくい。
なのに、気持ちはなかなか追いついてこない。
笑えばいいのか。
不快になるべきなのか。
ベラを応援していいのか。
それとも、どこかで距離を取るべきなのか。
映画を観ているのに、感情の置き場所だけが見つからない。
私は、『哀れなるものたち』の「意味がわからない」は、物語が難解だから生まれるのではなく、観客が普段頼っている“感情の手すり”を外してくるから生まれるのではないか、と考えています。
普通の映画なら、「ここでは悲しんでください」「この人を応援してください」「この変化を成長として受け止めてください」と、かなり丁寧に道を作ってくれます。
『哀れなるものたち』は、その道案内が妙に少ない。
ベラはどんどん前へ進むのに、
私たちの価値判断だけが後ろに取り残される。
だから、この映画について考えるときに大事なのは、
「正解を当てること」ではないと思っています。
むしろ、
なぜ自分はここで不快だったのか。なぜここでは自由に見えたのか。なぜ笑ったあと、少し嫌な感じが残ったのか。
そこを拾っていったほうが、この映画はずっと面白くなる。
この記事では、『哀れなるものたち』がなぜ「意味がわからない」と感じられるのかを、ベラの心理、脚本構造、視線、美術、自由とジェンダー、そしてラストまで掘り下げていきます。
まだ本編を観ていない方・もう一度見返したい方へ
※ここから先は、物語後半とラストに触れます。
- 『哀れなるものたち』はなぜ「意味がわからない」と感じるのか
- 賛否が割れる理由|『哀れなるものたち』の“不快さ”はどこから来るのか
- ベラに共感できないのはなぜ?「反省→成長」型ではない主人公
- 脚本構造から読む「意味がわからない」|感情の梯子が外されている
- ベラの「学習」が少し不気味に見える理由|成長と適応は同じではない
- 「視線」の映画として読む|見ることは、ときどき支配に近づく
- 美術と色彩がつくる「夢の距離」|美しいのに、なぜ落ち着かないのか
- 『哀れなるものたち』をフェミニズムだけでは語りきれない理由
- 『哀れなるものたち』ラスト考察|あれは救いなのか、それとももっと厳しい自由なのか
- 「意味がわからなかった」のに忘れられないのは、なぜなのか
- もう一度観ると、ベラの見え方はたぶん変わる
- まとめ|『哀れなるものたち』が「意味がわからない」と感じるのは、答えを渡してくれないから
- この映画の“引っかかり”が好きだった方へ
- 情報ソース・参考資料
『哀れなるものたち』はなぜ「意味がわからない」と感じるのか
最初に整理しておきたいのは、
この映画のストーリーそのものは、そこまで複雑ではないということです。
ベラが生まれ、外の世界へ出て、人と出会い、社会を知り、自分で選ぶようになる。
筋だけを取り出せば、むしろかなりシンプルです。
それでも「難しい」と感じる。
私は、その原因は出来事の理解ではなく、感情の理解が追いつかないことにあると思っています。
たとえば、一般的な成長物語では、
主人公の欲求、葛藤、失敗、反省、決断が比較的わかりやすく並びます。
観客は主人公と同じ順番で気持ちを経験できる。
だから「この人はいま何を感じているのか」がわかり、
その延長として「この選択をしたのだな」と納得できます。
ところがベラは、ときどきその順番を飛ばします。
葛藤を長く抱えるより先に、試してみる。
社会的な意味を理解するより先に、身体で経験する。
後悔を十分に見せるより先に、次の世界へ行く。
頭では物語を追えるのに、
心には「ちょっと待って」が残る。
つまり、「意味がわからない」の正体は、情報不足というより“感情の時差”に近い。
ベラはもう次へ進んでいる。
でも観客は、まだ前の場面を咀嚼している。
このズレが積み重なると、
「私はこの映画に乗れていないのかもしれない」という不安に変わっていきます。
けれど、その“乗り切れなさ”も、作品との関係の一部なのだと思います。
全部をすぐ理解できないからこそ、
あとから何度も戻って考えたくなる。
賛否が割れる理由|『哀れなるものたち』の“不快さ”はどこから来るのか
この映画は、美しいのに気持ちよくない。
私はそこが、とても重要だと思っています。
映像だけを見れば、色彩は豊かで、衣装は大胆で、世界は奇妙なほど魅力的です。
それなのに、物語が進むほど、
観客の倫理観とベラの行動がきれいには噛み合わなくなっていく。
ここで生まれるのが、不快さです。
ただし、それは単に性描写が多いからでも、刺激が強いからでもありません。
もっとやっかいなのは、
「自分ならこう感じるはず」という常識が、ベラには通用しないことです。
私たちは他人を理解するとき、
無意識に自分の感情を物差しにします。
傷ついたら悲しむ。
恥ずかしいことをしたら羞恥を覚える。
大切な人を失えば落ち込む。
そういう「普通」を前提にする。
でもベラは、その普通をまだ獲得していない場面がある。
だから観客は、感情移入しようとしても足をかける場所がない。
そして、ふと気づくんです。
自分が「人間ならこうあるべき」と思っていたものの中に、
実は社会から教わった振る舞いがかなり混ざっていることに。
『哀れなるものたち』の不快さは、ベラが異常だからというより、私たちが“普通”だと思っていた感情のルールを、いったん分解されることから生まれているのかもしれません。
だから、解放的だと感じる人もいる。
逆に、無神経で受け入れにくいと感じる人もいる。
その両方が出てくるのは、むしろ自然です。
ベラに共感できないのはなぜ?「反省→成長」型ではない主人公
ベラに対して、
「どうしても好きになれなかった」
「何を考えているのかわからなかった」
という人もいると思います。
でも私は、そこを無理に「実は共感できる人物なんです」とまとめなくていいと思っています。
ベラは、観客の共感を最優先に組み立てられた主人公ではありません。
むしろ彼女を見ていると、
私たちが主人公に求める“わかりやすい成長”のほうが浮かび上がってくる。
失敗する。
反省する。
心を入れ替える。
少し良い人になる。
この流れは、物語としてとても気持ちがいい。
けれどベラは、必ずしもその一本道を歩きません。
彼女は経験し、学び、言葉を増やし、
社会や貧困、人間の苦しさにも触れていきます。
つまり、ちゃんと変化も成長もしている。
ただ、その成長が、
「悪かったことを反省して、人格的に成熟する」だけの形ではないんです。
世界を知ることで、
選択肢が増えていく。
選択肢が増えることで、
自分の欲望と他人の現実が少しずつ同じ画面に入ってくる。
私は、そこにベラの変化の面白さがあると思っています。
共感しやすい主人公なら、
観客は主人公と一緒に歩けます。
でもベラの場合、
一歩離れて「この人は、いま何を獲得したんだろう」と考える時間が必要になる。
その距離が、彼女を少し冷たく見せる。
同時に、その距離があるからこそ、
ベラを「理想の女性像」に回収せずに済んでいるとも思います。
脚本構造から読む「意味がわからない」|感情の梯子が外されている

脚本を読むとき、私はよく
「観客はどこで主人公の気持ちに乗れるのか」
を見ます。
物語には、出来事の順番とは別に、
感情が動きやすい順番があります。
欲しいものが見える。
邪魔される。
迷う。
選ぶ。
代償を払う。
この流れがつながっていると、
観客は説明されなくても人物の内面を理解しやすい。
私はこれを、ここでは「感情の梯子」と呼びたいと思います。
感情の梯子がある物語
「なるほど、だからこの人はこうしたのか」
という納得が、一段ずつ積み上がっていく。
ところが『哀れなるものたち』では、
この梯子がところどころ抜けています。
「ここで葛藤を見せるだろう」と思った場所を通り過ぎる。
「ここで反省するだろう」と思った場所で、別のことを考えている。
観客の感情が追いつく前に、
次の場面へ移ってしまう。
その結果、
ストーリーを理解できないのではなく、感情をどう置けばいいのかわからない状態になります。
ここが、冒頭で触れた「意味がわからない」の、構造的な正体だと思っています。
そして面白いのは、
梯子が外されたとき、私たちが初めて
「自分はこんな順番で人物を理解したがっていたんだ」と気づくことです。
映画を観ているつもりが、
いつの間にか自分の物語の読み方まで見られている。
この作品の居心地の悪さは、かなりここから来ています。
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『Saltburn』はなぜこんなにも気持ち悪いのか──怖さの正体を、心の深層から考察する
『Saltburn』もまた、観客が安心して共感できる場所を少しずつ失わせていく映画です。二作を並べると、「不快さ」がどう設計されるのかが見えやすくなります。
ベラの「学習」が少し不気味に見える理由|成長と適応は同じではない
ベラは、世界をものすごい速度で学んでいきます。
言葉。
身体。
お金。
貧困。
仕事。
愛。
権力。
知るたびに、彼女の行動は変わる。
ただ、その変化を見ていると、
ときどき「成長した」という言葉だけでは足りない感じがします。
なぜなら、人間が社会の中で覚えていくものには、
知識だけでなく“どう振る舞えば通るか”という適応も含まれているからです。
こう言えば受け入れられる。
この場面では黙ったほうがいい。
ここでは、この距離まで近づいていい。
私たちは大人になる過程で、
そういうルールをかなり自然に身につけます。
ベラの場合、それがむき出しで見える。
だから少し怖い。
普通なら見えないはずの「社会化の途中」を、
早送りで見せられているようなところがあるからです。
ただし、ここを「ベラはただ模倣しているだけ」と読むのは違うと思います。
彼女は経験を重ねるにつれて、
明らかに自分なりの判断を持ちはじめています。
世界に合わせているだけではなく、
世界から受け取ったものを、自分の価値観に組み替えている。
その意味では、
これは「適応」と「主体性」がせめぎ合う物語です。
社会に合わせるだけでもない。
社会を全部拒絶するわけでもない。
必要なものを学び、
いらないものを疑い、
自分で選び直していく。
ベラの変化が気持ちよくも不気味にも見えるのは、
そのプロセスが、私たち自身の「大人になること」を少し露骨にしてしまうからかもしれません。
「視線」の映画として読む|見ることは、ときどき支配に近づく
この映画を考えるとき、
私は「誰が誰を見ているのか」がかなり重要だと思っています。
ベラは、ずっと見られる存在です。
研究対象として見られる。
愛情の対象として見られる。
欲望の対象として見られる。
理解すべき存在として見られる。
そして、その視線の多くには、
好意と同時に「こうあってほしい」が混ざっています。
ここが面白い。
人は誰かを「心配している」と思いながら、
その人の選択肢を狭めることがあります。
「あなたのため」という言葉は、
優しさにもなるし、管理にもなる。
『哀れなるものたち』では、
その境界がかなり曖昧に描かれています。
見守ることと、支配することは、思っているより近い。
相手の自由を尊重しているつもりでも、「この人にはこの生き方がふさわしい」と決めた瞬間、視線は少しだけ檻に近づきます。
そして厄介なのは、
観客である私たちも例外ではないことです。
ベラを見て、
「それは正しい」
「それは間違っている」
「共感できる」
「無理だ」
と判断する。
もちろん、映画を観る以上、それは自然なことです。
でもこの作品は、
その判断をしている自分の側まで少し意識させる。
私は彼女を理解しようとしていたのか。それとも、自分の理解できる形へ押し込めようとしていたのか。
そんな問いが残る。
だから『哀れなるものたち』は、
ベラを観察する映画であると同時に、
観客の「見る癖」まで映してしまう映画なのだと思います。
美術と色彩がつくる「夢の距離」|美しいのに、なぜ落ち着かないのか
『哀れなるものたち』を思い返すと、
物語より先に、あの世界の形を思い出す人もいると思います。
大きく歪んだ空間。
異様に鮮やかな色。
身体の輪郭そのものを変えてしまうような衣装。
きれいなんです。
でも、「住みたい」とは少し違う。
眺めていたいのに、
どこか落ち着かない。
私は、この感覚がベラの心理とかなり響き合っているように見えます。
彼女にとって世界は、
まだ意味が固定されていない場所です。
物、人、身体、性、貧困、愛。
私たちがすでに名前をつけて分類しているものを、
ベラは初めて見る。
だから画面も、
「これはこういう世界です」と簡単には落ち着かない。
現実っぽいのに、現実ではない。
古い時代のようなのに、
どこか未来のようでもある。
美術そのものが、
ベラの「まだ世界を分類しきれていない感覚」に近いんです。
そしてもう一つ大事なのが、
美しい画面と、そこで起きていることの感情が一致しない場面が多いことです。
普通なら、美しい画面は安心や幸福と結びつきやすい。
でも本作では、
画面が美しいからといって、
そこで起きていることまで気持ちいいとは限らない。
このズレが、
「惹かれるのに、少し冷たい」
という独特の後味を作っているのだと思います。
『哀れなるものたち』をフェミニズムだけでは語りきれない理由
『哀れなるものたち』をフェミニズムの視点から読むことには、かなり意味があります。
女性の身体を誰が決めるのか。
誰が自由を認めるのか。
「守る」という言葉の中に、どれだけ支配が混ざっているのか。
そうした問いは、作品の中心にあります。
ただ私は、
この映画を「女性が抑圧から解放されて自由になる物語」だけで閉じてしまうと、少しこぼれるものがあると思っています。
なぜなら本作は、
自由をそれほど甘く描いていないからです。
自由になるということは、
好きなことができるというだけではありません。
自分で決めなければならない。
そして、自分で決めた以上、
その結果も引き受けることになる。
誰かが人生の答えを決めてくれる世界は、
窮屈です。
でも、誰も決めてくれない世界は、
別の意味で厳しい。
私は本作が描いているのは、
「自由は幸福そのものではなく、自分の人生の責任を自分へ戻すこと」
ではないかと読んでいます。
だから、フェミニズムの物語でありながら、
同時に主体性の物語でもある。
ジェンダーだけでなく、
人間が「自分の人生を誰に決めさせるのか」という問題まで広がっていく。
その広がりがあるから、
単純なメッセージ映画にはならない。
『哀れなるものたち』ラスト考察|あれは救いなのか、それとももっと厳しい自由なのか

ラストを「ハッピーエンド」と呼ぶかどうかは、
少し迷うところです。
確かに、ベラは物語の序盤よりもはるかに多くのものを知っています。
自分の過去。
世界の残酷さ。
人間の欲望。
そして、自分自身が何を選びたいのか。
彼女は、誰かに決められる存在ではなくなっている。
その意味では、かなり明確な到達点があります。
ただし私は、
ラストを「自由になれてよかったね」で終えると、
少し作品をやさしくしすぎる気がします。
ベラが手にしたのは、
何をしても許される自由ではありません。
自分で判断し、その結果を自分の人生として引き受ける自由です。
それは、気楽なものではない。
むしろ、自分を決めてくれる誰かがいなくなったぶん、
責任は重くなる。
だから私は、
あのラストを「救いか拒絶か」という二択ではなく、
ベラが初めて、自分の人生の“主体”になった場面として見たいと思っています。
幸せかどうかは、まだわからない。
でも、誰かに人生を定義される場所からは出た。
その違いは、とても大きい。
そしておそらく、
この映画が最後まで簡単な答えを出さないのは、
「自由になれば必ず幸福になる」という別の檻まで作りたくないからではないでしょうか。
自由には、孤独もある。
選択には、代償もある。
それでも、
自分で決める。
私は、そこにこのラストのいちばん強い部分があると思っています。
「意味がわからなかった」のに忘れられないのは、なぜなのか
理解できた映画は、
意外ときれいに記憶の棚へ収まります。
「こういう話だった」
「こういうテーマだった」
名前をつけられるからです。
でも『哀れなるものたち』は、
その棚に収まりにくい。
美しかった。
不快だった。
面白かった。
ちょっと嫌だった。
自由だった。
でも怖かった。
矛盾した感情が、同時に残る。
私は、そこにこの映画の強さがあると思っています。
映画を「理解する」というのは、
ときどき、その作品に名前をつけて片づけることでもあります。
でも名前がつかない感情は、
あとから何度も戻ってくる。
「意味がわからない」は、理解できなかった証拠ではなく、まだ作品との対話が終わっていない状態なのかもしれません。
「あの場面は何だったんだろう」ではなく、
「なぜ私は、あの場面が嫌だったんだろう」。
そう問いが変わった瞬間、
『哀れなるものたち』は少し違う映画になります。
作品の中だけではなく、
観ている自分の価値観まで含めた物語になるからです。
もう一度観ると、ベラの見え方はたぶん変わる
この映画は、二度目になると見る場所が変わりやすい作品です。
初見ではベラの行動に追いつくので精一杯だったところも、
結末を知ったあとなら、
「このとき彼女は何をまだ知らなかったのか」
という視点で見られます。
男性たちの視線。
美術の変化。
言葉の増え方。
ベラ自身が、どの場面から他人の痛みを自分の世界へ入れ始めるのか。
そういう部分を拾っていくと、
一度目に「意味がわからない」と感じた場面にも、
違う輪郭が出てきます。
『哀れなるものたち』をもう一度観たい方へ
現在のDisney+見放題、Amazonデジタル購入、Blu-ray+DVDの選択肢をこちらでまとめています。
まとめ|『哀れなるものたち』が「意味がわからない」と感じるのは、答えを渡してくれないから
『哀れなるものたち』の「意味がわからない」は、
難解なストーリーのせいだけではありません。
むしろ、
- 観客が感情移入するための梯子を途中で外す
- ベラを単純な「共感できる主人公」にしない
- 自由と支配、成長と適応を簡単に二分しない
- 美しい映像と居心地の悪い感情を同居させる
- 最後まで「こう受け取れば正解」という答えを置かない
こうした要素が重なって、
観る側の価値観を少しずつ不安定にしていきます。
だから、わからなくなる。
でも、その「わからなさ」は、
作品から弾かれた証ではないと思います。
むしろ、
まだ自分の中で答えが完成していないからこそ残っている。
私は、この映画を
「何を言いたい映画なのか」だけで整理するより、
「自分は、どこで居心地が悪くなったのか」
から読んだほうが面白いと思っています。
ベラの自由が眩しく見えたなら、それも一つの答え。
どこか危うく見えたなら、それも一つの答え。
どうしても好きになれなかったなら、
その拒否感にだって、ちゃんと理由がある。
物語は、すべてを理解した瞬間に終わるとは限りません。
わからないまま残ったものが、
数日後、数週間後に別の言葉へ変わることもある。
『哀れなるものたち』は、
そうやって観た人の中で、あとから少しずつ形を変えていく映画なのだと思います。
※本記事は作品の解釈を一つに限定するものではありません。自由、ジェンダー、身体、成長、ラストについては複数の読み方が成立します。本記事では、心理と脚本構造を中心にした一つの読み方として考察しています。
情報ソース・参考資料
本記事では、『哀れなるものたち』の作品情報、監督・キャスト、原作、公開情報などの事実確認に、公式サイトおよび映画情報メディアを参照しています。
一方、「感情の梯子」「視線」「成長と適応」「自由と主体性」「ラストの意味」などの心理・脚本構造に関する部分は、作品をもとにした本記事独自の考察です。監督や脚本家の意図を断定するものではありません。
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Searchlight Pictures|『哀れなるものたち』公式情報
ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演、アラスター・グレイによる原作など、作品の基本情報と日本向け公式発表の確認に使用しています。
-
Disney+|『哀れなるものたち』作品ページ
作品概要、2023年作品であること、上映時間2時間22分、ジャンル、年齢区分、ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォーら主要キャストの確認に使用しています。
-
映画.com|『哀れなるものたち』作品情報
日本劇場公開日、原作アラスター・グレイ、脚本トニー・マクナマラ、撮影ロビー・ライアン、美術・衣装を含むスタッフ情報、主要キャスト、受賞歴などの確認に使用しています。
哀れなるものたち : 作品情報・キャスト・あらすじ - 映画.com哀れなるものたちの作品情報。上映スケジュール、キャスト、あらすじ、映画レビュー、予告動画。「女王陛下のお気に入り」のヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーンが再びタッグを組み、スコットランドの作家アラス...
考察について
作品解釈には複数の読み方があります。本記事で扱う「感情の梯子」やベラの心理、視線、自由、ジェンダー、ラストに関する分析は、上記資料に書かれた“公式の答え”ではありません。作品に描かれた人物・出来事・構造をもとに、心理と脚本構造の視点から読み解いた一つの考察です。




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